目標ではなく

校内研修の話です。

「学力向上が目標です」

と言われます。

そもそも学校というところは、勉強するところですから、今更「学力向上」なんておかしな話だと私は思っています。

目標にはならない。

さらに、「学力向上」は目標になるのでしょうか。

教育の目的は「人格の完成」です。

これは動かしようがありません。

では、「学力向上」はどこに位置づけられているのでしょうか。

指導要領には、各教科の目標が掲げられていて、それを身につけるように書かれています。

でも、身につけなくても、卒業できます。(教師の仕事の複雑さはここにあります。それは後述)教師は最後まで身につけるように努力を続けます。

私は教師が「学力向上」を目標にして、ドリルや補習に努力するのが好きではありません。子供たちにとっては、「学力向上って、何?」という感じでしょう。

乱暴な言い方ですが、「学力向上」は研修の目標にはなりません。目標と言うより、結果だと考えています。

子供たちが夢中になる目標や教材や授業を用意すれば、学力は上がるに決まっています。自分で調べよう、考えようとしない限り、学力向上はありません。

確かに、テストをして、「テスト慣れ」ということもあるでしょう。「学力とは、全国学テの結果だ」と言い放った指導者がいらっしゃいますが、そういう方は何を見ていらっしゃるのでしょうか。

すべての時間でなくてもいいと思います。一週間に一度くらい、みんなが

「何だろう」

「えー」

という瞬間を感じたり、意見を交換したり、自分で体を動かしたりする時間を作っていくしかないと私は思っています。

そんな活動の中で、何かを感じる子供が一人でもいたら、それでいいと思います。当然「つまらない」

と感じる子供も居ると思います。

それもありです。

とにかく、いろいろな仕掛けをする。

外部講師を呼ぶ。

体験的な活動をする。

ときには、放っておく。

子供たちが何かを始めたら、それがチャンスです。

本を読み始める。

ピアノを習い始める。

弓道をやってみたいと言う。

太宰治を読み始める。

算数の学力は向上しなくても、大きな枠組みの中で子供たちが何かを始める。動き始める。それが私は一番大切であると思っています。

「それは学力向上ではない」

という指摘を甘んじて受けます。その視点でいう「学力向上」ではないかもしれません。

動き始めた子供たちは、一番大切なものを身につけています。

「何かを始める勇気」

です。

これで十分な気がしています。

 

 

算数ができるようにする。

これも教師としてとても大切な仕事だと思います。

できるように一緒に考える。

これもあります。

できるようになることがその子供にとって何か成長に繋がると考えているからです。

「できないよりできる方がいい」

これもありです。

同時に

「算数なんてできなくても生きていける」

とも教えたい。

ここが教師の仕事の複雑さだと思っています。

中学校からの数学を日常生活でつかうことはありません。

せいぜい4年生までの算数で十分だと思います。

計算機があります。分からないことがあったら、その場で誰かに聞けば用は足ります。

「できた方が君の選択肢は増えるだろうけど、できなくても生きていけるよ」

というメッセージもありだと思うのです。だいたい、小学校レベルの算数の成績が少しくらい悪くても、人生に絶望する必要は全くありません。

私は子供たちが算数ができるようになって欲しいと願い、いろいろと教えたり機会を作ったりしています。実際に子供たちが

「分数の計算なら大丈夫」

と話したこともあります。

でも、それだけはないとも言いたいのです。

 

卒業間際の子供が

「先生、太宰治の『女生徒』って知っていますか」

と言ってきたとき、無条件に嬉しくなりました。

「いい本読んでいますね」

と言いました。

そんな日々ももう少しで終わりです。