最後の卒業生

定年退職の最後の1年間。

6年生の担任をしました。

管理職の方々のお心遣いと思い、感謝しています。

有り難いお話です。

卒業式を終えました。

最後の卒業生となるでしょう。

 

 

私は38年間の教師生活の中で、10回6年生を担任しました。

管理職に

「もう3年間も6年生を担任していないから」

と言われた事があります。

修学旅行の下見に行ったら、ホテルの方に

「先生、また来たの」

と言われた事もあります。

どの6年生も忘れがたい子供たちです。

振り返って考えると、いかに子供たちと保護者に助けられてきたのか、やっと感じるようになりました。

教育という行為は、双方向です。教師が一方的に学級を動かしているわけではありません。6年生なら、子供たちが持っている空気のようなものが、学級を作っているのだと感じます。その空気も、子供たちだけが持っているものではなく、保護者や地域が持っている空気と密接に関係していると思っています。

この1年間は、保護者の方々のお力を感じることが多かったように思います。

卒業式が終わった後の子供たちと保護者とのやりとりを見ていたら、

「やっぱり親の力はすごい」

と感じてしまいました。この保護者の力があってこそ子供たちの生活や学力が成り立っているのだと思いました。

担任をしている以上、その力を信じたいと思います。協力関係を作ることができたら、最高の応援団を得ることになります。安心して学級を運営し、子供たちとの相互作用を最大限に生かすこともできます。

学級は、教師が一人で作るものではありません。教師と子供たちと保護者と地域との関わり合いで成り立つものだと思います。

 

来週には、退職の辞令が出ます。

「とりあえず教師になっておこう」

くらいの気持ちで始めた小学校教師ですが、気がつけば定年まで続きました。

自分に合っていたのだと思います。

何より、学級担任は自由です。

教えなければならない事は決まっています。

でも、どのように教えるのかはすべて担任の裁量です。どのように教えてもいいのです。

自由なのです。

よく定型の授業の話が出ますが、どのように定型にしようとしても無理があります。

定型にはなりません。

教師の持つ「間」のようなものは、みんな違います。子供たちの集団としての「間」

もみんな違います。

定型にはなりません。

ある発問をします。定型の文です。

1組と2組は同じ授業になるのでしょうか。

絶対になりません。同じ教師がやっても、同じにはなりません。

だから、私は定型は無意味だと思っています。

「子供たちが『学び方』がわかる」

という指摘もあります。

でもどうでしょうか。

ある定型で、子供たちが分かる瞬間はみんな同じでしょうか。

そんなことはありません。

どんな問題でも、問題を読んだ瞬間に答えが分かってしまう子供は必ずいます。

逆に、どのように説明されようとも、わかるようになるまでに、時間がかかる子供もいます。

授業を定型化しても、この個人差をうめることはできません。

それよりも、子供たち同士で

「あーでもない、こーでもない」

と自由に話し合った方がずっといいと思っています。

ここでも、やはり自由があります。

 

 

私は、教師が好き勝手にいろいろなことを始めれば、まだ学校というシステムは長く続くように感じています。逆に、いろいろな縛りを作っていけば、学校というシステムは近い将来破綻するのではないかと思っています。

「学力向上」が多くの学校の課題になっています。

学力向上と言って、過去の問題を子供たちにやらせたり、ドリル学習のようなものをやらせたりしても、もう意味はないと私は思っています。

「学力向上だから、計算プリント」

のような発想は、もう子供たちから捨てられています。

子供自身が自分たちの学力向上をどれだけ願うかにかかっていると思っています。

「それじゃ、間に合わない」

というご批判は、現状のような進路指導が続くとお考えなのでしょうが、その進路指導の発想を変えなければなりません。

自由で好き勝手なことができる職場は本当に楽しいです。

また新しい始まりです。