違和感

分からない子に、分かっている子が教えるとき、分かっているのは成績上位の子であると思いますか。

分かっている子は、分からない子がなぜ分からないのか、分からない。

「教師は最善の教え手ではない」

もし、学級全体の平均点を上げたいならば、中位の子供たちの成績を上げれば、平均点は上がる。私はやりませんけど。

では、どうするか。

中位の子供たちに、たくさん説明させる。説明する場面を用意する。

私は、再任用の身として、職場でたくさんの違和感を持っています。

でも、職場ではあまり発言する気もありません。

この違和感は、どんどん大きくなっています。

 

学校は完全に行き詰まっていると思います。

出てくることが、以前の焼き直しに過ぎないからです。

「少人数指導」「習熟度別学習」「教科担任制」など、さんざんやりました。

20年以上昔の古い中教審が引用された時には、あきれました。

「いや、それ、私は現場にいたんだけど」

と言いたくなりました。

20年前に「教科担任制」について、

「私も20年前にやっていましたけど」

と発言された方がいらっしゃいました。

まさに、その状態になっています。

教師が、一世代動いて、また同じことをやろうとしている。

完全に行き詰まっていると思います。

内田樹氏は「教育は惰性の強い制度である」と言っていますが、その「惰性」で動き続けなければなりません。「惰性」を変えるのはとても難しいとつくづく思います。

 

 

『学び合い』は画期的な考え方だと今更ながら思います。

「『学び合い』は考え方だ」

と言い切った西川先生の慧眼に感服します。

「指導論レベル」「教材研究レベル」「方法論レベル」など、研究会の議論を見切るメタ認知を明確にした事も同様に素晴らしい慧眼だと思います。

私は、指導者がどのようなレベルで話しているのか、とても気になります。

研究会の議論のレベルが、どのようなレベルで話されているのかも、とても気になります。

正直、「指導論レベル」の話し合いに参加したくありません。

 

最近、「目的は何か」と考えるのが、とても面白いと思っています。

「学力向上」は、盛んに喧伝されていますが、

「そもそも、その学力向上の目的は何ですか」

という問いに答えた例を知りません。

私は、教師である以上、学力向上を願っていますし、少しでも学力向上できるように子供たちに接しています。その上で、

「なぜ、学力向上と言わなければならないのか」

という問いに答えた指導者を知りません。

関東の有名大学に進学する地方出身者が減っているという報道がありました。これを学力格差と指摘する記事もありました。この指摘も、全国で学力向上を叫んでいる動きと同様に思えます。

みんなが学力向上と叫ばなければ、意味がないのです。

「学力向上なんて、生きていけるだけの学力でいいのではないか」

「学力だけで、人生を測られたくない」

「学歴社会なんて、もう幻想でしょ」

という声が聞こえてくるように感じています。

では、なぜ、学力向上なのか。

明確な答えをお聞きしたいと思っています。

 

うんざりしています

詳細を書くことはできません。

ある会話が聞こえてきて、うんざりしました。

 

 

私は、学力向上も体力の向上も、道徳的な態度の育成もとても大切だと考えていますし、これなくして学校はないとも思っています。学力向上を願わない授業なんてものはあり得ません。体力の向上を願わない体育の授業もあり得ません。

ただ、ここで

「では、学力とは何ですか」

「体力向上の目的は何ですか」

なんて問いを立てると、それぞれに意見があり、一筋縄ではいかない状態になります。

さらに私は、一人一人の学力向上と体力向上には興味がありますが、平均を上げるという事にはほとんど興味がありません。

これは私の経験からの話です。

以前、体力向上が課題の学校に勤務したことがあります。

体力テストの平均をあげようとしました。

これが簡単です。

できない子供のタイムを向上させるよりも、できている子供のタイムを向上させる方がずっと簡単です。やっているうちに平均はどんどん良くなっていきます。

でも、体育を苦手としている子供の記録はほとんど向上しません。練習が続くので、体育そのものを嫌いになっていきます。

これでは、本末転倒です。

もう30年も前のことです。

学力向上も体力向上も30年前と同じ事をやっています。

正直うんざりです。

あまりにもうんざりしているので、そろそろ辞めようと思ってしまいます。

来年度以降については、8月末までに結論を出さなければならないので、それまでじっくりと考えます。

違う

責任ある立場の人は本当に用心した方がいいと思います。

最近、公的な場所で責任ある立場の方からあるお話を伺いました。

その中で2つ気がかりな発言がありました。

 

その1

「個に応じた指導と個別最適化は同じです。」

私は驚きました。

同じではありません。

「個に応じた指導」はあくまでも教師側がその子に応じた指導をするということです。

現実には、その子に合っているかどうか分かりませんし、通常の授業の中で一人の教師が一人一人に応じた指導をすることなんて、できるわけありません。

「個別最適化」は、子供が自分で自分に合った学び方をするという意味です。学習方法を子供が選ぶことができます。ある子供は教科書を読む、ある子供はタブレットを使う、ある子供はとりあえず友達に相談する、など自分に何が合っているのか、自分で選択するのです。

この2つが同じであるわけありません。「個別最適化」を現実的に実践できる授業は『学び合い』しかありません。

 

その2

「学び合いは、授業方法の一つです。」

この議論は、大学院に在籍していたときに、散々議論しました。学習会でも何回も質問を受けました。「『学び合い』は考え方である」という考えが実は一番理解が難しい。かくいう私も、大学院を修了してある同志と話をしているときに、この考えがストンと落ちました。

授業方法の一つではあるけれど、方法論のレベルで論じてはいけない。指導観、児童観、教材観、など「観」のレベルの問題で論じないといけない。だから『学び合い』の授業には定型がありません。授業を見に行くと、ごく普通の一斉授業に見えます。でも、『学び合い』という成立しているなんてことが当たり前にあります。

 

この2点だけでも、私はびっくりしたし、がっかりもしました。

こんな理解で校内研修が始まるのかと思うと、心底うんざりします。

はっきりと、責任ある立場の方々は、もっと勉強して欲しい。

そう思っています。

 

年度末ですね

いよいよ年度末です。

異動の話題もちらほらと聞こえてきます。

異動が決まれば、次は校内人事です。

私が決める訳ではありませんので、受け身です。

昨年度は、高みの見物を決めていたら、意外な方向に話が進みました。

今年はどうでしょうか。

 

校内人事について、私は希望外の学年を持つことが殆どでした。

希望通りに担任をしたことは殆どありません。

校長に呼ばれて

「この学年が決まらない」

とすべての学年の担任が埋まった状態のメモを見せられたこともあります。

断ったことはありません。

「ではやりますよ」

と言われた学年を担任してきました。

後で、内田樹氏の著作に出会い、

「仕事に呼ばれる」

という考え方に触れたときに

「なるほど、自分は仕事に呼ばれていたんだな」

と思い返しました。

校長からすれば、本命が「うん」と言わず、仕方なく2番手である私に話を持ってきて私が「いいですよ」と言ってしまうので、本命に持って行けなくなったという展開かもしれません。

実際、自分が校長からすると、2番手だったこともあります。メモが見えてしまったので、分かりました。

そもそも40年前に教師になったときに

「いつまでやるのかな」

と思ったくらいの決意だったので、仕事に呼ばれたと考える方がいいのです。

さて、今年は、どんな仕事に呼ばれるのか、今は待っています。

 

再任用で2年間働きました。

身近でいろいろなことがあり、どこかで区切りをつけようと思い始めています。

大先輩は、70歳を過ぎてもお元気で働いていらっしゃいますが、私には無理なようです。

あと、何ヶ月かじっくり自分としての区切りについて、考えようと思っています。

とりあえず、勤続40周年のリフレッシュ休暇5日間を楽しみにしています。

 

言葉遣いが気になる

公的な場での指導者の言葉遣いが気になります。

「学び合いを取り入れた授業」

「『学び合い』は考え方だ」と骨の髄までしみこんでいる私には、『学び合い』は授業を構成する哲学のような者ですから、「取り入れる」なんてレベルではありません。

『学び合い』の授業をしようと思えば、考え方を変えなければなりません。取り入れるなんて中途半端な態度では、『学び合い』は破綻します。

 

昨日の教育事務所による「支援担当訪問」がありました。

私は、大学院から戻ったころからやっている国語の授業を公開しました。

指導者が

「この仕事を2年間やっていますが、こういう授業は初めて見ました。」

と言っていました。正直な方です。

私は15年前からやっています。この授業を評価してくれた方は数名です。

西川先生が

「時代の先を行きすぎた」

というような事を何回もお書きになっていますが、その通りだと思います。

今になって、子供たちの相互作用を重視する時代になりました。

でも、まだ「取り入れる」レベルの話です。

教師の考えを根本から変えるレベルには、まだまだ至りません。

かなり上から目線の書き方になりましたが、仕方ありません。

そういう私ももうすぐ消えます。

老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」

です。

あと何年?

3月末まで勤めると、勤続40年です。

「勤続40年のリフレッシュ休暇が5日もらえるよ」

と言われました。

思えば、よくぞここまで勤められたものだと我ながら感心します。

私は、教師になりたくて教師になったわけではありません。

とりあえずの感じで仕事を始めました。

40年も続いたのですから、自分には天職だったのかもしれません。

内田樹さんが

「天職とは、仕事に呼ばれるものだ」

と書いていらっしゃいますが、まさに私の場合は天職だったのでしょう。

今まで、仕事を大きく断ったこともありません。呼ばれるままに仕事をしてきました。

「希望はしないけど、頼まれればやりますよ」

という何ともある種“傲慢な”態度で仕事をこなしてきました。

教育の理想に燃えたこともありました。

時間を忘れて仲間と語り合ったこともあります。

『学び合い』に出会って以来、徹底的に『学び合い』の人間になりました。

「子供は有能である。教師は最善の教え手ではない。教師の仕事は、①目標の設定②環境の整備③評価である。」

という『学び合い』の考え方が骨身にまでしみこんでいます。

クラスの理想像を子供たちに語ることもありません。どういうクラスしたいのか、最終的には子供たちが決めることです。多くの教師はクラスの理想像を持っています。その理想像を語り、子供たちを何とかそこに連れて行きたいと願っています。

私はいつから理想のクラスを子供たちに語ることを辞めました。

「どういうクラスにしたいのか、それは最終的には君たちが決めることです」

と語ります。

理想像を押しつけられるのではなく、自分たちで作っていくものだと語るのです。

やってみると、とても面白い展開です。

 

最近

「あと何年?」

と聞かれます。

現状のようなフルタイムで働くのは、長くてもあと2年でしょう。

その後は、時間給の仕事をするか、他の職種に転職するかですが、現在のように働くことはもうしません。

もう十分に働きました。

教師になりたくて、教師になったわけではないけど、私には天職でした。

存分に働き、十分に満足しています。

 

 

動く国語の授業を考える

ちょっとしたひらめきで、

「動く国語の授業はできないか」

と考えています。

国語の研究授業を今までも見てきましたが、教師が前に立って静かに授業を進めている姿が多かったように思います。

なんだ、かんだ子供たちが言い合うような、動きのある授業はできないかと考えています。

正解なんてなくてもいいのです。答えを自分たちで導き出すような話し合いや関わり合いがあるような、そんな授業です。

もし、ごく普通の教科書に載っているような教材で、動く国語の授業が出来るなら、相当に面白いと思います。

社会でも理科でも子供たちは動いて学習しています。

それなら、国語でも可能ではないか、と考えています。

さて、この発想で授業ができるのでしょうか。