年度末ですね

いよいよ年度末です。

異動の話題もちらほらと聞こえてきます。

異動が決まれば、次は校内人事です。

私が決める訳ではありませんので、受け身です。

昨年度は、高みの見物を決めていたら、意外な方向に話が進みました。

今年はどうでしょうか。

 

校内人事について、私は希望外の学年を持つことが殆どでした。

希望通りに担任をしたことは殆どありません。

校長に呼ばれて

「この学年が決まらない」

とすべての学年の担任が埋まった状態のメモを見せられたこともあります。

断ったことはありません。

「ではやりますよ」

と言われた学年を担任してきました。

後で、内田樹氏の著作に出会い、

「仕事に呼ばれる」

という考え方に触れたときに

「なるほど、自分は仕事に呼ばれていたんだな」

と思い返しました。

校長からすれば、本命が「うん」と言わず、仕方なく2番手である私に話を持ってきて私が「いいですよ」と言ってしまうので、本命に持って行けなくなったという展開かもしれません。

実際、自分が校長からすると、2番手だったこともあります。メモが見えてしまったので、分かりました。

そもそも40年前に教師になったときに

「いつまでやるのかな」

と思ったくらいの決意だったので、仕事に呼ばれたと考える方がいいのです。

さて、今年は、どんな仕事に呼ばれるのか、今は待っています。

 

再任用で2年間働きました。

身近でいろいろなことがあり、どこかで区切りをつけようと思い始めています。

大先輩は、70歳を過ぎてもお元気で働いていらっしゃいますが、私には無理なようです。

あと、何ヶ月かじっくり自分としての区切りについて、考えようと思っています。

とりあえず、勤続40周年のリフレッシュ休暇5日間を楽しみにしています。

 

言葉遣いが気になる

公的な場での指導者の言葉遣いが気になります。

「学び合いを取り入れた授業」

「『学び合い』は考え方だ」と骨の髄までしみこんでいる私には、『学び合い』は授業を構成する哲学のような者ですから、「取り入れる」なんてレベルではありません。

『学び合い』の授業をしようと思えば、考え方を変えなければなりません。取り入れるなんて中途半端な態度では、『学び合い』は破綻します。

 

昨日の教育事務所による「支援担当訪問」がありました。

私は、大学院から戻ったころからやっている国語の授業を公開しました。

指導者が

「この仕事を2年間やっていますが、こういう授業は初めて見ました。」

と言っていました。正直な方です。

私は15年前からやっています。この授業を評価してくれた方は数名です。

西川先生が

「時代の先を行きすぎた」

というような事を何回もお書きになっていますが、その通りだと思います。

今になって、子供たちの相互作用を重視する時代になりました。

でも、まだ「取り入れる」レベルの話です。

教師の考えを根本から変えるレベルには、まだまだ至りません。

かなり上から目線の書き方になりましたが、仕方ありません。

そういう私ももうすぐ消えます。

老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」

です。

あと何年?

3月末まで勤めると、勤続40年です。

「勤続40年のリフレッシュ休暇が5日もらえるよ」

と言われました。

思えば、よくぞここまで勤められたものだと我ながら感心します。

私は、教師になりたくて教師になったわけではありません。

とりあえずの感じで仕事を始めました。

40年も続いたのですから、自分には天職だったのかもしれません。

内田樹さんが

「天職とは、仕事に呼ばれるものだ」

と書いていらっしゃいますが、まさに私の場合は天職だったのでしょう。

今まで、仕事を大きく断ったこともありません。呼ばれるままに仕事をしてきました。

「希望はしないけど、頼まれればやりますよ」

という何ともある種“傲慢な”態度で仕事をこなしてきました。

教育の理想に燃えたこともありました。

時間を忘れて仲間と語り合ったこともあります。

『学び合い』に出会って以来、徹底的に『学び合い』の人間になりました。

「子供は有能である。教師は最善の教え手ではない。教師の仕事は、①目標の設定②環境の整備③評価である。」

という『学び合い』の考え方が骨身にまでしみこんでいます。

クラスの理想像を子供たちに語ることもありません。どういうクラスしたいのか、最終的には子供たちが決めることです。多くの教師はクラスの理想像を持っています。その理想像を語り、子供たちを何とかそこに連れて行きたいと願っています。

私はいつから理想のクラスを子供たちに語ることを辞めました。

「どういうクラスにしたいのか、それは最終的には君たちが決めることです」

と語ります。

理想像を押しつけられるのではなく、自分たちで作っていくものだと語るのです。

やってみると、とても面白い展開です。

 

最近

「あと何年?」

と聞かれます。

現状のようなフルタイムで働くのは、長くてもあと2年でしょう。

その後は、時間給の仕事をするか、他の職種に転職するかですが、現在のように働くことはもうしません。

もう十分に働きました。

教師になりたくて、教師になったわけではないけど、私には天職でした。

存分に働き、十分に満足しています。

 

 

動く国語の授業を考える

ちょっとしたひらめきで、

「動く国語の授業はできないか」

と考えています。

国語の研究授業を今までも見てきましたが、教師が前に立って静かに授業を進めている姿が多かったように思います。

なんだ、かんだ子供たちが言い合うような、動きのある授業はできないかと考えています。

正解なんてなくてもいいのです。答えを自分たちで導き出すような話し合いや関わり合いがあるような、そんな授業です。

もし、ごく普通の教科書に載っているような教材で、動く国語の授業が出来るなら、相当に面白いと思います。

社会でも理科でも子供たちは動いて学習しています。

それなら、国語でも可能ではないか、と考えています。

さて、この発想で授業ができるのでしょうか。

 

学力テストについて2

学力テストの結果が出て、学力テストの結果を受けてどのような取り組みをするのかを提出するように指示されています。

はじめに私の立場をはっきりさせておきます。

私は、学校の一番大切な機能は学力向上であると考えています。教師たるもの、子供が学校に来て何かしらの学びが合って欲しいと願って、毎日過ごしています。学力向上を否定することは学校を否定する事だとも思っています。

学力テストの結果から、学力向上となると、話はややずれます。

そもそも、学校が学力向上を目指す場所であることは疑いようがありません。学力向上を目指さない学校があったら、お目にかかりたいと思っています。

ならば、どうして学力向上と言わなければならないのか。これって、屋上屋を架すことにならないかと思うのです。何も言われなくても、学力向上を目指すわけですから、その上に「学力向上」というのはどうしてだろうかと思うのです。

そもそも「学力ってなに」という論点もあります。

「学力とは、学力テストの結果です」

という乱暴な言葉を耳にします。言う方はそれでいいのでしょうが、聞いている方は納得できるわけがありません。

私の書き方も、多くの論点がありもっと絞って書くべきだとは思いますが、様々に論じていく必要も感じています。

結局ここまで来て、一番に感じていることがあります。

学力テストという全国統一の度量衡で測ることに慣れさせることが目的だったのではないか、という疑問です。

例えば、最近旅行した松山市は俳句の町です。町中に、投句箱が置いてあります。俳句があちこちに掲示してあって、俳句の町を感じます。

もし、投句箱の数で学力を測るとしたらどうでしょうか。出来るはずがありません。正岡子規以来、歴史ある俳句の町としての顔があります。全国の度量衡では測れない魅力があります。

おそらく多くのその地域ならではの度量衡があります。特色と言ってもいい。それを度外視して全国に統一の度量衡を行き渡らせる、その意味では成果があったと思います。

勤務している地域は、学び合いを推進しています。一人も置いていかないという方針を出しています。これは、全国の度量衡で測れるものではありません。学力テストの結果は結果として、違う度量衡を持つものとして、堂々としていればいいと私は思っています。

もし、教育委員会が堂々としていれば、勤務している教師は拍手喝采すると思いますし、来年から異動希望が殺到すると思います。

もう一つ、学力向上が叫ばれてから、20年に以上になります。「分数のたし算が出来ない大学生」以来、学力向上にシフトして、「ピサショック」と言われる国際的な学力テストの結果も後押しして、国を挙げて、学力テストに取り組んできました。

その20年の成果は出ているのでしょうか。

成果は、学力テストという度量衡を全国に行き渡らせたということ以外、あるのでしょうか。

20年以上の取り組んできた学力向上の反省は、あったのでしょうか。

2002年、勤務校が全国100校のうちの「学力向上フロンティアスクール」の指定を受けて、文字通り「学力向上」の研究に取り組みました。今思えば、ずいぶんと無理をしました。

それ以来、学力向上が取り上げられない日はないと思います。

 

 

まだまだしばらく考えてみたいと思っています。

松山城で考えたこと

四国、松山に行ってきました。

本格的四国に行ったのは、初めてです。

松山城今治城大洲城湯築城と回ってきました。

 

松山城は、とても大きな城です。

規模的には、加賀百万石の金沢城に匹敵すると思います。

しかし、加賀百万石に比べて、松山藩はぜいぜい20万石です。

これだけの城をどうやって維持してきたのか、とても興味がわきます。

城だけ見ると、規模は様々です。城に展示してある古地図をから当時の大きさを感じます。天守台から見ると、

「あそこまで城だった」

と驚きます。

それにしても、現在まで残されている堀までの大きさから、松山城の大きさがわかりまます。

 

こういうことは、そこに行ってみないとわかりません。

一条谷城に行った後、金沢城に行くと、城の規模としての大きさに驚きます。

松山藩は最後は「賊軍」として扱われて、そこから「坂の上の雲」で描かれている正岡子規や秋山兄弟が生まれてきます。

司馬遼太郎が、なぜ彼らを書くことになったのか、「坂の上の雲」を読みながらじっくりと考えてみたいと思っています。

ネットの時代だからこそ

1年間で一番嫌いな研修がありました。

コロナ前までは、出張でしたが、コロナ以降はウェブでの開催になっています。

これは良い方向です。

すべての学校から必ず参加するとのことで、私が教員に名って以来、ずっと続けられていることです。

教育課程説明会と言います。

 

私は社会科を担当しました。提案者の内容は、ネットを活用した社会科授業でどんな力をつけていくのかというものでした。

今の社会科の授業で、ネットの情報を活用しないということはあり得ません。ネットには、子供たちが魅力的に感じる情報があふれています。それを自由に使わせれば、子供たちはそれこそ勝手にいろいろなことを学びます。

私は、それでいいと思います。弥生時代なら、弥生時代の土器に関心を持つ子供もいれば、食べ物に興味を持つ子供がいる。当たり前に自分が調べたいことを調べられる時代になったのです。

だから、もう一斉授業のような板書計画も要らないし、ノートに共通のものを書くという時間もいらない。自分の調べたことで書きたいことを書く。それでいいと思います。

それで、ちゃんと学んでいます。

それなのに、授業の形態は依然として、一斉授業の形を変えられない。私には、分からない理屈です。もう全員が一台ずつタブレットを手にしているのです。好きに学べば良いのではないか、と私は思ってしまうのです。

もう一つ。多くの情報を自由に手に入れられる条件になったからこそ、本物が力を持つと思っています。実際に土器を手にしてみる、発掘現場に行ってみる、消防署に行ってみる、など、実際のものと現場に行ってみることに価値があると思っています。

写真を見比べる前に、実際にその場に行ってみると、混んでいるとか、店があるとか、匂いがするとか、いろいろな体験をします。バーチャルは所詮バーチャルです。

 

ネット時代の授業なのに、授業形態は依然として旧態依然としているというねじれがあり、それを自覚することなく、進もうとしていることに指導者から何もコメントがなかったということは、指導者も同様に自覚がないということなのでしょうか。

 

こういう提案を聞くと、

「もっと吹っ切れれば楽しいよ」

と言いたくなります。

 

 

県の資料を読んでいたら、社会科の授業について

「単元を見通した授業を」

とありました。

もう15年以上前からやっています。

でも、この授業は、全然広がりません。

だから、私の特権です。

広がらないことに、全く不満はありません。