卓見

私は、骨の髄まで『学び合い』の人間ですが、酒井式描画法にも魅力を感じています。

幸いなことに、酒井先生との長いお付き合いもあります。

今日、ある出来事で、酒井先生の言葉を思い出しました。

「子どもは、見て描くのではない。触って描くのだ」

例えば、大きな木を描かせるとします。

「よく見て描くのですよ」

「大きな幹ですね。大きな枝があります。葉っぱもいっぱい付いていますね。」

「枝が、重なっていますね。」

などなど、具体的な指示をして、子供たちにどのように描かせるのかを指示を重ねていきます。

酒井先生は、そうしないのです。

「大きな木を描かせるなら、大きな木を触らせる。あとは、教室でいい」

私も、大きな木を描かせるときに、大きな木を触らせて、あとは、教室で描かせました。今風に、写真など撮りません。子供たちは、自分が触った木の感触を頼りに描き進めるのです。

自分の顔を描くときも、鏡など用意しません。

「まず、自分の鼻をさわってごらん。どんな形をしているかな」

なんて、言うのです。しかも、逆さまに描かせるのです。

今考えると、まさに卓見です。この卓見に、20年以上気づかずに過ごしていました。

今日は、この言葉が

「あー」

という感じで降ってきました。

とてもいい気分でした。

酒井先生は、絵を描いている子供たちの様子をじっと見ていたのだろうと思います。

あの素晴らしい実践の数々を産んだ眼力と、子供たちの姿から学ぶ卓見に今更ながら感謝したいと思っています。

どんな世の中にしたいのか

未来の世の中を予想する、またはどのような世の中を作りたいのかに答えるのは、とても難しい思考です。

人口が減り、環境が悪化し、資源が枯渇し、国家という枠組みすら終わろうとしている指摘もあります。

水野和夫氏の「資本主義の終焉」に関わる著作を読んだときに、つよい衝撃を受けました。水野氏は

「資本主義の先に何かあるのか、私には分からない」

というようなことを書かれていました。

また同時期に

里山資本主義」

を読み、なんだか少しの見通しが見えたような気もしていました。

甘い見通しです。

そんなことを考えていると、学力テストの点数を上げるために努力していることが馬鹿らしくなってきます。

何が今大切なのか、大きな物語の中で考えたいと思うのです。

たまたま本屋に行って、手にした本を読み始めたら、脳が全開になっていく感じがしました。

 

斎藤幸平著

人新世の「資本論

集英社新書 1020円+税

2020年9月

 

まだ途中ですが、例えば環境問題で現在取り組んでいることの多くが環境への負荷を下げるものではないと指摘されています。

電気自動車を走らせれば、環境への負荷を下げられるものではない。

では、どうするのか。

ここからが面白くなります。

 

 

この結末から、学校で子供たちに何が出来るのかを考えます。

少なくても、学力テストの点数のためにやることとは違うと感じています。

 

 

若い受賞者で話題をさらった「推し、燃ゆ!」を読了。

この若さで、これだけの言葉を操れるのはすごいと感じましたが、私には理解しがたい世界でした。

 

 

セーフティネットをはろう

もし、コロナ膵炎に感染してしまい、自宅待機になったら、どうなるでしょうか。

自宅待機は2週間におよぶかもしれません。

その間、買い物も出来ないし、外出もできない。

運良く、冷蔵庫がいっぱいの時だったとしても、2週間買い物に行かずに、食べ物を確保して、生き延びることが出来るでしょうか。

近くに頼れる親戚があれば、いいですけど。その親戚も感染していたらどうでしょうか。

こうなると、多様な人たちと繋がっている必要があります。

遠くの親戚より近くの隣人。友人です。

私は、仲の良いメンバーと

「もしものときは、食料を調達し合う」

という約束を広げています。

声をかけると、みんな同意してくれます。

その人が、

「職場にも言っておこう」

と動いています。

大きなセーフティネットを作って、生き延びなければなりません。

こういうときに、地元のつながりがあるかどうかが、分かれ目です。

私は、幸いにして近くに弟が住んでいます。

とりあえず、弟に食料の調達を頼みます。玄関先に食料を置いてもらえばいいのです。

でも、その一軒だけでは不安です。共倒れも考えられます。

いざというときには、お互いに助け合う確認をしておくだけでも、大きな安心に繋がります。

地域も年齢も立場も違う人たちとセーフティネットを作っておく。

お互いの安心のため、みんなで生き延びようと思っています。

 

本当にそうですか

「それは違いますよ」

と言いにくい場面があります。

先日も

「少人数指導で人数を減らしたからと言って、成績が上がるとは限りませんよ」

と発言したら

「人数が減ったら、成績が上がるんじゃないですか」

と言われたので

「では、山の中の全校で数名の学校が一番良くなるはずですよね」

と返したら、返答がありませんでした。

クラスの人数を減らせば、指導が行き届く、なんて考えは、教師側の考え方です。

子供たちは、必ずしも少人数学級を望んでいるわけではありません。

私が、もし、西川研に所属するときに、

「今年は、君一人だよ」

と言われたら、所属を考え直していたかもしれません。

指導する側の考えと、指導を受ける側の考えは、必ずしも一致するわけではありません。自分がどちら側に立つかで、全く違う考えをもつかもしれません。

今はもう昔の話ですが、大学生の時に、私はロシア語を受講していました。

大変な講義だったので、行く度に人数が減っていき、最後は四人になりました。

教養部の講義を受けるのに、毎週5時間ほどの予習をして行きました。

それでも、講義の進みが早いと、授業の最後は、大変な事になりました。

少ないと、いろいろと大変でしたが、確かに勉強はしました。

それが、いつもそうなるとは限りません。

脱落するかもしれない。

私は、しばらく

「本当にそうですか」

という問いを封印してきました。

最近、少し復帰しました。

理由はわかりません。

面倒な性格が頭を持ち上げてきています。

困ったことです。

 

人生何が起こるかわからない

人生、何が起こるか本当にわからないものです。

まさかの一言で、たくさんのことを考えています。

不思議です。

何か、風向きが変わったような気がしています。

 

今日は、自分だけの備忘録のような記録です。

 

難しい仕事

特別支援学級の担任の仕事は、とても難しいと感じています。

「子供に居場所となるような学級を作る」

と言われます。確かに、居場所にならないような特別支援学級では困ります。

では、それで十分かと言えば、全く違います。

今年は、交流学級の担任の理解もあり、子供たちもしっかりと受け入れてくれて、いい関係が出来ています。

それでも、居心地が良すぎるのか、交流学級より自分の教室で勉強することを選びます。

私は、この学級で完結するわけではないと思っているので、できるだけ交流学級で過ごして欲しいと思っていますし。一度交流学級に出したら、なるべく手助けしないと決めています。何もしないという訳ではありませんが。

私の教室にいるときと、交流学級にいるときでは、全く違う表情を見せている子供もいます。

本人もそれを自覚しています。

でも、自分が出てしまうことすら、嫌がります。

特別支援学級の担任は、本当に難しいと感じています。

 

 

これまで、10回ほど6年生の担任をして、卒業生を送り出してきました。

「最高の6年生を」

と思ってきました。

これも、教師の一方的な思い込みのような気がしています。

子供からすれば、いい迷惑かもしれません。

私自身のことを振り返れば、小学校の卒業式が嬉しくて仕方なかった。

早く中学生になりたかった。

高校の進学も大学の進学も、就職すら、新しい世界へ進むときのわくわく感にあふれていました。そのわくわく感が長く続くこともなく、後は平凡な毎日になっていくのですが。

中学校に早く行きたいと思っている子供が、「小学校で最高の思い出を作ろう」なんて言われても、「別にいいし」という感じなのでしょうか。

「もうすぐ、中学生だね」

と言ったら

「もう小学校は十分です」

と言われたことがあります。

思うは教師ばかりなりということでしょうか。

 

 

子供たちもいずれ、自分の力で立つことになります。

そんなとき、やはりどんなつながりがあるのか、が大切です。

それを最初に出来るのが、小学校の担任であると感じてます。

特別支援学級だけでは終わらないからこそ、そんなことを感じています。

 

学術ベースの研究を

来年度の校内研修の提案がありました。

どうやら、校長先生がご専門の理科になるようです。

校内研修で、理科というのも、とても珍しい。

教師になって、初めてかもしれません。

 

 

理科なら、学術ベースでお願いしたい。

例えば、

「各班に、リーダーとなる子供がいて、どの班も実験が進んでいましたね。」

と褒める指導者がいます。

「子供たちの役割が決められていて、実験がすんなりと進みました」

これを聞いたときには、心から驚きました。

記録の係になった子供は、一度も実験器具に触っていませんでした。

どれも、西川先生の「理科はなぜ難しいと言われるのか」に書いてありますし、『学び合い』の実践者なら、みんな知っていることだと思います。

『学び合い』初期の本にみんな書いてあります。

また、理科の学習過程についても、不思議です。

「問い、予想、実験、まとめ」

という大まかな流れについても、絶対にこうだと決められている割には、その始まりについての話が全くありません。

「なぜ、その流れなのですか」

「どこから、その学習過程はできたのですか」

という問いが、聞こえてきたことがありません。

私は、こういう「そもそも」が好きなので、こういう質問をすると、みんな目が点になるのです。

中には

「予想は、一人で立てる物だから、誰ともしゃべるな」

という指示を出している先生もいました。

馬鹿らしい。

その上、

「考えられない子供にどのようなヒントを出したらいいか」

なんて質問が出るから、ますます馬鹿らしくなります。

「相談すれば、いいのでは」

と私は思ってしまうのです。

こんな話が出たら、さぞかし私は楽しくなるだろうなあと思っています。

無理かも、しれませんが。