指導案について

西川先生が指導案つにいて書かれています。

私も以前、指導案について長々と書いた記憶があります。

何回も書いている事ですが、書き慣れた教科の指導案であれば、A4サイズ2枚程度を30分ほどで8割方完成することができます。私にとって、指導案を書くことはたいした負担ではありません。

その上での意見です。

私は、西川先生のご指摘に賛成の立場です。

今から20年ほど前、全国に「学力向上フロンティアスクール」という100校の研究指定校を作る大がかりな研究指定を文部科学省が行いました。

私は、その学校に勤務しました。

「学力向上フロンティアスクール」は、教科担任制、習熟度別学習、少人数指導を研究の中心にしろと指示されていました。加配がない状態で教科担任制をしたらどうなるか、想像してみてください。

主要四教科が研究の対象になりました。特に算数が大変で、少人数指導と習熟度別学習、教科担任制の3つを同時に行うことになりました。

その結果、1時間の授業に20ページを超える指導案が必要になりました。

来る日も来る日も授業内容の吟味をし、指導案を書き、検討しを繰り返しました。

校内で仕上げた指導案を、事務所に提出すると、また手直しが入り、また検討です。

理科を担当していた私は、指導案の検討が嫌になり、

「適当に書くから」

と言って、指導案の指導を拒否していました。

すると、事務所から指導主事が学校に来て、直接の指導ということになりました。

本当の話です。

それだけ、指導案を書くということをやってきた経験から、指導案の検討ほど無駄なことはないと思っています。

最近は、誤字脱字の訂正程度の指導案検討になっていますし、「学びの共同体」の形式にそう形で「授業デザイン」という形式になっています。必要なことだけ書くだけです。

それで、十分です。

参観者は、指導案の通りに授業が進んでいるのかを参観するのではなく、子供たちがどのように学んでいるのかを見ています。

 

 

私は、研究授業の参観に行くのが嫌いです。

指導案の通りに進んで行く授業ほど退屈なものはありません。

正直、退屈すぎて眠くなります。

それでも、子供は指導案から逸脱した発言や行動をとります。

「さて、担任はどうするのか」

とその瞬間は楽しくなります。

子供たちの学びが活性化する瞬間でもあります。

「そんなこと言っちゃうんだ」

という雰囲気です。

その発言や、その行動を取り上げて、どのように次に生かすのか、まさに担任の力量なのですが、指導案にとらわれている限り、無理です。

私は『学び合い』の人間です。

子供は有能であると骨の髄から信じています。

そもそも、私の授業に、指導案通りという発想は全くありません。

形式を指定されるので、指定された形式通りに、できるだけ書くことを少なくして書きます。できあがった指導案はスカスカです。

授業は、子供と教師のコミュニケーションです。予定された発言など、たいしたことはありません。しゃべっているうちに、思いがけないものが出てきて、どんどん面白くなっていく、そういうものです。

最近は、全員が違うことをやっている時間が多いので、何が出てくるのか、予想することなど不可能になっています。一人一人が違うのですから、一人一人の予想など立てようもないし、立てたところでどうすることもできないからです。

私は、もうすぐ現在のような教室や授業や教科などの枠組みがなくなってしまうのではないかと思っています。どんなに新しい機材を使っていようとも、従来の枠組みの中での授業はもう不要だと思っています。

指導案が必要なら、最低限書くことを絞る。必要ないことは書かない。形式的に済ませられることは形式的に済ます。

指導案は「案」であることを肝に銘じる。逸脱を恐れない。逸脱を楽しむ。

所詮、子供たちがやることなど、予想もできないことだと心の内で開き直る。口にすると、敵が増えるので要注意。

授業で子供たちの姿を見て、どうなのかを話し合えばいいと思っています。