日本語で「くそ仕事」と言われる仕事があることをコロナ禍の報道で知りました。
英語でなんと言ったのか、忘れました。
職場にも「くそ仕事」があることが分かります。
「こんなことをやって、何が楽しいのだろう」
と私は思います。
私は絶対にやりませんし、だいたいそういうことに気づきません。
「くそ仕事」をしないというだけで、どれほどの時間が生まれるのか、想像もできません。多分、私はその「くそ仕事」をしないおかげでものすごく大きな時間を確保しているのだろうと思っています。精神的にもいいようです。
その代表のひとつが指導案の検討だと思います。
検討し過ぎて誰の授業だか分からなくなったという笑い話があります。
誰の授業だか分からなくなった授業を指導案通りに進めて、授業後の研究協議会での批判は一人で受けなければならなかったという話もあります。
「自分の授業は、自分の思い通りにするのが一番と分かった」
と私に言ってくれた同僚がいます。
私は、指導案の検討をしても、最後のところは授業者が決めるという態度をとっています。たとえ、相手が指導主事であっても、自分の授業は自分で決めます。
以前、授業者を引き受けたときに
「指導案の検討はしない。授業は自分の思い通りにやる。授業後のご批判はご自由にお願いしたい」
という条件を出したことがあります。
自分の思い通りに授業をして、子供たちの事実を見てもらって、批判は甘んじてお受けするという当たり前を実行しただけです。
散々指導案をいじられて、結局不完全な指導案のままで、指導案についてご意見を頂いたときに、
「誰が何を読んでいたんだ」
とすっきりしない気持ちになったこともあります。
それなら、自分の責任で自分が書いたとおりで良かったのです。
それなら、自分の責任ですっきりします。
結局、どのような指導案を書いたところで、子供たちが動かなければだめです。
子供たちがいろいろな意見を発表し合う、意見を交換する、一生懸命に勉強している、みんなで声を掛け合っている、など子供たちの姿が大切です。この点は、「法則化」が言うとおりです。子供の姿がすべてです。
その子供の姿をどのように考えるのか、ここが『学び合い』は決定的に違います。
教師の発問、指示など教師の働きかけによって、子供たちが動いたと考えるのか。もともと子供たちは有能であるので、子供たちに任せた方が効果的であると考えるのか、大きな違いがあります。
授業後の研究協議会の持ち方も全く違います。
子供たちがどのような学びを作っていたのか、子供たちの動きを徹底的に分析するのが『学び合い』です。
思い返せば、長い教師生活で本当にいろいろなことがありました。
妻が
「辞めるのではないか」
と思うほど憔悴していた時期もありました。白髪が一気に増えました。
次の学校に異動したら、すっかり元気になったこともあります。髪の毛が黒くなったので自分でも驚きました。
謎のじんましんで、薬を飲んでいたこともあります。そのときは原因は分かりませんでしたが、じんましんが治まったときに、「あれが原因か」と振り返ったこともあります。
私は、徹底的に科学的な人間です。問題の解決には科学的な裏付けが大切であると思っています。クラスの問題を解決するときも、自分の経験だけでなく、同僚の話だけでなく、たくさんの読書をして答えを導くようにしてきました。
不遜な言い方かもしれませんが、今、自分の経験と読書の成果と有能な同志たちとのつながりで、多くの問題を解決済みとして処理できるようになりました。多くを悩む必要はありません。解決の糸口をつかんでいるので、問題の解決に時間を割く必要がありません。
課題のある子供たちと力業で対決したこともあります。暴力を奮ったわけではありません。そういう経験がすべて自分の血となり肉となっています。
今年度で定年です。
まだ働き続けますが、今年度が自分の大きな区切りになることは間違いありません。
ちょうどあと半年です。自分の区切りとなるように、のんびりと子供たちとの毎日を楽しもうと思っています。