個別最適化へ

昨日書いた後で気がつきました。

私は、骨の髄まで『学び合い』の人間ですが、気が付けば、個別最適化にシフトしていたのかもしれません。

クラスで、共通の課題をみんなで解決して行くというのは、とてもダイナミックで楽しい時間です。参加できない子供をどう取り込んでいくのかを見ているだけで、わくわくしました。結果として、みんなが楽しくなり、効果もありました。

しかしです。

私の授業は、タブレットの登場によって、激変しました。

もともとそういう指向を持っていたところへ、タブレット端末が登場して一気に動いたのかもしれません。

子供たちのタブレット端末の活用を見ていると、

「どうやっても一斉指導では太刀打ちできない」

と感じます。西川先生が言っていたように、繰り返して聞くことができます。納得できるまで聞けるのです。

しかも、自分で選ぶことができます。映像が好きな子供は映像で、文字が好きな子供は文字で、と自分が好きな学び方を選べます。

教師一人でどのように逆立ちしても勝てるわけがありません。

教師の仕事は、適切な目標やめあてを設定すること。何より、

「これは学ぶ価値がある」

と思わせることにあります。「学ぶ価値がある」と思えば、あとは自分で選んで学習を進めます。

「学ぶ価値がある」ではなく「学ぶ価値があるかも」でもいいと思います。「学ぶ価値があるかも」なら子供はとりあえず動きます。自分で動き出せば、何とかなります。

自分で動き出した子供が教室の多数になれば、その教室は全体として動き出します。

私の教室では、授業のほとんどの時間でタブレットを使っています。

多くの時間は、個人での学習になっています。

時々、子供たち同士での話し声が聞こえますが、多くの時間を個人の学習に使っています。

気がつけば、『学び合い』より「個別最適化の授業」になっています。

 

 

さて、そこでどうなんだろうと考えていることがあります。

「学びの共同体」では、「課題が違うと学び合いはできない」と考えているようです。

『学び合い』では、違う課題でも『学び合い』は成立すると考え、異学年の『学び合い』を実践しています。

大きな違いです。

私は自分の授業で、違う課題を立てた子供同士でも『学び合い』が成立することを知っています。だから、『学び合い』から「個別最適化」は当然の発展です。

「学びの共同体」にいる限り、この発想は出ないでしょう。

 

 

そこで、またまた次の問題です。

結局「個別最適化」が進めば、教室という枠組みや授業という枠組みがなくなってしまうと思うのです。一斉指導もなくなります。

「学びの共同体」の中にいる限り、この大きな枠組みの中での発想です。

つまり、ある課題をみんなで解決して行く、言った場合、この「みんな」が教室や授業という枠組みを前提としています。

では、『学び合い』ではどうでしょうか。

課題が違っていても、『学び合い』は成立すると考えているので、教室や授業という枠組みがなくなっても、あまり影響されません。課題は、一人一人です。

「みんなが自分の課題を解決する」

という『学び合い』はすでにありです。

この場合は、

「みんなで課題を解決する」

のではなく

「みんなが自分の課題を解決する」

のです。

この違いは大きいと私は思っています。

確かに、「学びの共同体」と『学び合い』の考え方には、重なる部分が大きいと思います。敵対するわけではありません。

しかし、「みんなで課題を解決する」と「みんなが自分の課題を解決する」とでは、前提とする枠組みから違うと感じています。

 

 

私は、教室や授業などの枠組みがもうすぐなくなってしまうのではないかと思っています。それなのに、教師の発言の多くが、まだ一斉授業を前提として話しています。教師の仕事も、一斉授業を前提として進められています。

すでに「個別最適化」に踏み出している私は、そういう発言を耳にする度に心が痛みます。

「それをしたところで、もう先はないですよ」

と言いたいです。

まず、一斉授業がなくなるでしょう。

明治維新以来、およそ150年教室の真ん中にいた一斉授業は、近いうちに終焉するでしょう。高校から始まって、中学に広がり、小学校に来るまで、それほどの時間はかからないでしょう。

その日が来る前にすべきことがたくさんあると思っています。