夏休みの間、子供たちとの接点はありません。
自分の中で、2学期へのいろいろな期待がいろいろな授業へと変化していきます。
ある種の妄想です。
そんなに上手くいくはずもない。
子供たちが近くにいないので、自由に想像しています。
自由に考えて居る時間からすると、学校というところは本当に制約が多いところだなあと感じます。会社に勤めたことがないので、会社との比較はできませんが、学校での制約にうんざりすることがあります。
制約ならまだ戦い方がありますが、同調圧力には本当に疲れます。
別に誰が決めたわけでもないのに、何となくそちらに流れていく感じ。
私は、嫌いです。
こうなると、善し悪しの問題ではなく、多数決の原理だけで動くようになります。
多数派は、まさに主流派です。その流れに逆らうことができなくなります。
できないというより、諦めてしまうという方が正しいかもしれません。
以前にあったことです。
トイレの改修が終わり、様式のトイレに変わりました。
子供たちが使い慣れていないせいか、紙詰まりが頻発するようになりました。
そこで、職員会議で
「紙の使用は○○mまで、と子供たちに指導する」
という結論になりました。
この決定に関して、私はその場にいたので、決定に参加したことになります。自分で決定に参加しておいて、このような書き方をするべきではないとも思いますが、この会議での私は
「こんな馬鹿馬鹿しいことを話し合っている、ついて行けない」
という感じでした。
紙の使用量ですが、健康状態に寄っても変わりますし、その子のお尻の状態に寄っても変わります。
詰まってしまったら、
「次は詰まらないように」
と話をすればいいだけです。
だいたい、その使用量をどのように調べるのでしょうか。
一律に決められることではありません。決めてはいけないことだと思います。
この時も、
「統一歩調」
という同調圧力に言葉が出ませんでした。
だいたい、この「統一歩調」という考え方が怪しい。
同じ事をするという意味でしょうか。
「この件に関しては、学級担任の判断で」
という統一歩調もあり得るわけで、みんなが同じことをするという意味ではありません。
この「統一歩調」という言葉を捕まえて、職員に
「同じ事をしろ」
と命令した校長もいました。上手い具合に利用されました。
子供たちから考えれば、教師の「統一歩調」ほど嫌なことはないでしょう。
金太郎飴のような教師集団ですから。
様々なタイプの、年齢の違う、経験の違う、性別はちょうど半分くらいで、教師集団がいいと思います。中には、当然「変な先生」「若い先生」「年寄りの先生」などごちゃごちゃにいる教師集団をまとめ上げられる管理職は現れないでしょうか。