学力テストについて2

学力テストの結果が出て、学力テストの結果を受けてどのような取り組みをするのかを提出するように指示されています。

はじめに私の立場をはっきりさせておきます。

私は、学校の一番大切な機能は学力向上であると考えています。教師たるもの、子供が学校に来て何かしらの学びが合って欲しいと願って、毎日過ごしています。学力向上を否定することは学校を否定する事だとも思っています。

学力テストの結果から、学力向上となると、話はややずれます。

そもそも、学校が学力向上を目指す場所であることは疑いようがありません。学力向上を目指さない学校があったら、お目にかかりたいと思っています。

ならば、どうして学力向上と言わなければならないのか。これって、屋上屋を架すことにならないかと思うのです。何も言われなくても、学力向上を目指すわけですから、その上に「学力向上」というのはどうしてだろうかと思うのです。

そもそも「学力ってなに」という論点もあります。

「学力とは、学力テストの結果です」

という乱暴な言葉を耳にします。言う方はそれでいいのでしょうが、聞いている方は納得できるわけがありません。

私の書き方も、多くの論点がありもっと絞って書くべきだとは思いますが、様々に論じていく必要も感じています。

結局ここまで来て、一番に感じていることがあります。

学力テストという全国統一の度量衡で測ることに慣れさせることが目的だったのではないか、という疑問です。

例えば、最近旅行した松山市は俳句の町です。町中に、投句箱が置いてあります。俳句があちこちに掲示してあって、俳句の町を感じます。

もし、投句箱の数で学力を測るとしたらどうでしょうか。出来るはずがありません。正岡子規以来、歴史ある俳句の町としての顔があります。全国の度量衡では測れない魅力があります。

おそらく多くのその地域ならではの度量衡があります。特色と言ってもいい。それを度外視して全国に統一の度量衡を行き渡らせる、その意味では成果があったと思います。

勤務している地域は、学び合いを推進しています。一人も置いていかないという方針を出しています。これは、全国の度量衡で測れるものではありません。学力テストの結果は結果として、違う度量衡を持つものとして、堂々としていればいいと私は思っています。

もし、教育委員会が堂々としていれば、勤務している教師は拍手喝采すると思いますし、来年から異動希望が殺到すると思います。

もう一つ、学力向上が叫ばれてから、20年に以上になります。「分数のたし算が出来ない大学生」以来、学力向上にシフトして、「ピサショック」と言われる国際的な学力テストの結果も後押しして、国を挙げて、学力テストに取り組んできました。

その20年の成果は出ているのでしょうか。

成果は、学力テストという度量衡を全国に行き渡らせたということ以外、あるのでしょうか。

20年以上の取り組んできた学力向上の反省は、あったのでしょうか。

2002年、勤務校が全国100校のうちの「学力向上フロンティアスクール」の指定を受けて、文字通り「学力向上」の研究に取り組みました。今思えば、ずいぶんと無理をしました。

それ以来、学力向上が取り上げられない日はないと思います。

 

 

まだまだしばらく考えてみたいと思っています。