書店をぶらぶらしていて、書名に惹かれて購入しました。
石戸奈々子著
賢い子はスマホで何をしているのか
日経プレミアシリーズ 2021年7月8日
子供たちが、すでにスマホなしの生活で暮らせるわけがない、だからどのように使わせるのかという出発点です。
当たり前ですが、学校をどうするのかを問う内容です。
「画一化」が果たした役割は大きいけれど、もう限界なのではないか、と次への提言が続きます。
やはり学校は変わらなければならない。
みんながそう思っています。
でも、変われない。
私は、現場にいて
「まあ、無理だろうなあ」
と強く思います。
やっていることが、教師主導の授業を前提としている限り、変わりようがありません。
教材研究にしても、子供たちに対する態度にしても、問題への対処にしても、「学び合い」を推進しているのであれば、このような対応にはならないはずだと感じることがあります。
『学び合い』では
「『学び合い』は考え方だ」
と主張してきました。
「考え方」ですから、その教師の「観」にふれる重大な考え方です。
ここで、多くの教師は止まります。進めなくなります。
自分がやってきたことの多くを捨てることを意味します。もう二度と使うことがなくなるかもしれません。
一斉授業を前提として、どのように「学び合い」を取り入れるのかという程度の授業になります。
まったく変わりません。
「観」に切れ込めるかどうか、その教師のやっていることを見ていればわかります。
研究授業にしても、同じです。
指導案の通りに進む授業を見ていても、何も面白くありません。
指導案の通りに進む授業を見ていて、指導者が
「いい授業でしたね」
と褒めるのをみると、
「この指導者は何を見ているのだろう」
と強く思います。
私は、指導案から逸脱する瞬間を見ています。
子供たちの中である種の混乱が起こるのです。
さて、その混乱をどのように乗り切るのか、ここが一番面白い。
子供たちの本来の姿が現れます。
今まで、知らん顔をしていた子供がいきなり参加してきて、混乱を解決して行くこともありますし、全く関わりのないグループに関わりが生まれる事もあります。
指導案の通りに進む授業をよしとする教師には、全く見えない姿です。
授業を教師が進めるのだと考えている教師には、「学び合い」はできないと思っています。まして『学び合い』は絶対に無理です。
私の授業は、子供たちが思いもかけない動きをします。それを教師である私がすべて把握することなどできるはずもありません。
「その子なり学んでいればよしとする」
というきっぱりとした決意が必要です。
そもそも一斉指導を放棄しているわけですから。
個別の学びを推進するのですから。
先日の支援担当訪問では、ある子がずっと動画をみていたそうです。
私は、見ていたことを知っていましたが、「ずっと見ていた」とは知りませんでした。
指導者が
「ずっと動画を見ていましたが」
と言っていました。
その子は、「ずっと動画を見ている」必要があったのでしょう。
それ以上ではありません。それが学習に結びつくのかどうか、わかりません。
たとえ、結びつかなくても、その子がつぎの学習に結びつけばいいのです。
子供たちを信頼して、任せる、失敗は次に生かす、自分の学習方法は自分で決めると腹をくくって『学び合い』を進める方が、ずっと面白いし、効果も高いと思っています。