脱力

今年で定年の私にとって、定年までで最後の支援担当訪問を受けました。

「支援担当」

と言っても、内容は全くの「指導担当」でした。

勤務地が、「学び合い」を推進していることもあって、「学び合い」が話題になっていましたが、これも「一斉指導ありきの学び合い」という感じで、何とも中途半端な感じを受けました。

ここまで来て、「学びの共同体」にしても『学び合い』にしても、授業観、指導観を変えない限り進んでいかないことを痛感しています。小手先の「話し合い活動を取り入れました」では、話になりません。

私は、完全に「観」のレベルで振り切っているので、曖昧な中途半端な話し合いにうんざりしていますし、指導者がその中止半端な授業を評価していることに失望しています。

「またか」

という感じです。

私の授業は完全に振り切っているので、指導者が評価も指導もできず、困ってしまいます。

評価も指導もできないような授業を組み立てているからです。

今日も私の授業で、私がしゃべった時間は、最初の5.6分と最後の1分間程度です。

後は、子供たちが勝手にやっていました。授業もチャイムと同時に始まり、チャイムが鳴る前に終わりました。

働き方改革をしてほしい」

というなら、それなりの指導をすべきです。

仕事を増やすような指導をしてはいけません。

結局、仕事を増やすようなことしか言えません。

「もっとこうすれば」

ということなら、誰でも言えます。

「ここを削っても」

という指導を聞いたことがありません。

仕事を増やすようなことを言っておいて、仕事を減らせ、働き方改革だと言っているは、アクセルを踏みながらブレーキを踏んでいるようなものです。

指導者なら、もう少し自覚して欲しい。

「10年後、子供たちが生きていく上で必要な力をつけて欲しい。それが何なのか考えながら仕事をしてほしい」

とも言われましたが、その10年後に必要な力が何なのか、もう分かっているはずです。

今から考えているのでは遅い。

私は、10年後確実に現場にはいませんが、10年後を見据えた力を子供たちにつけているつもりです。

それが何なのか、次の機会に。