内田樹氏の「困難な成熟」「困難な結婚」からとれば、「困難な教室」になります。
気軽に、学級経営と言いますが、定年になろうという年になっても、いや、この年になるほどの経験を積んだからこそ、学級経営は難しいと感じています。
私は、幸いにして今まで学級崩壊を起こしたことはありません。クラス替えがなく、学級崩壊した前年度学級崩壊したクラスをそのまま担任したことはあります。近くの教室で学級崩壊していきそうな学級と関わりましたが、結局そのクラスは崩壊してしまったこともあります。
私に力量があったとは思いません。ただ、運が良かっただけです。今はそう思っています。幸いにして、私の味方になってくれた子供たちと保護者がいたので、私が結構無茶なことをやっても、許されたのだと思っています。
大学院が終わってから、子供たちとの距離の取り方が全く変わりました。
困難な学級はあります。ひとつ掛け違いがあれば、すぐに崩壊に向かう学級があります。
職員室では、「あの学年は大変だ」という言い方で、何とか支援しようとします。担任がへばってしまっては大変なので、様々に援助します。でも、大変な学年には違いありません。
そういう学年に対して、威圧的な教師が担任すると、その1年はとりあえず収まります。平穏に過ぎていくように見えるのです。
ところが、次の年、またその次の年、威圧的でない教師が担任すると、子供たちが牙をむきます。
威圧的に接すれば、相手は言うことを聞くことを子供たちが学習しているからです。
その場に、前担任がやってくれば、子供たちは静かになります。威圧的な人に対しては従順になることを学習しています。居なくなれば、今度は自分たちが威圧的になり、担任に襲いかかります。
一見、騒がしいクラスでも、民主的な教師のクラスは、子供たちは民主的な態度を学びます。決して、人に威圧的な態度をしてはならない、情意を尽くして話をする、対話をするという態度を学びます。
よく「統一歩調」と言われますが、その中で子供たちの話をよく聞いている教師の存在があります。
「まあ、座れ。話を聞こう」
という態度の不思議なおっさんが例外なくいるものです。
教師の仕事は大変に複雑です。よいことが悪くなり、悪いことがよくなる、なんてことがあります。
その複雑さの中を、「統一歩調」とか「共通理解」という言い方で単純化しようという発想は大変に危ういと感じています。
教師の仕事は、大変に多岐にわたります。同時に、複雑で困難な仕事だと感じています。