客ではない

すべてを準備してあとは、子供たちが言うとおりに動くだけという授業を参観することがあります。

私が6年生を担任して、家庭科の洗濯の授業をしたときのこと。

時期が運動会の練習をしているときだったこともあり、子供たちから

「どうせなら、練習で汚れた体育着を洗いたい。それを次の週に着ればいいのだから」

と言われて、その通りにしたことがあります。

私は、ほとんど準備などしないので

「教科書を見て、上手に洗濯してね」

と言っただけでした。

「洗面器と洗剤は先生が用意します。ハンガーは持ってきてください。あと、必要な物はありますか」

などと質問しながら、必要な物をあげて、だれが用意するのかだけの確認をしました。

洗濯の手順など、全く説明しません。

「では、あとは教科書見たり、みんなで相談して進めてください」

と言っただけでした。

当然、洗剤を入れすぎたり、すすぎに時間がかかったり、汚れが上手く落ちなかったりとハプニングが続きます。

だから

「どうして」

という疑問がわき、いろいろと学ぶのです。

すべて教師が用意し、手順を示しながらやってみたのでは、子供たちは何を学ぶのでしょうか。

 

授業に混乱はつきものです。ハプニングと言ってもいい。予想外の事が起きる。そこで、子供たちは

「なぜ」

と考え始める。

成功体験だけでは、だめです。

私は失敗した、隣は上手くいった。

なぜ?

子供たちの思考が動き始める瞬間です。

『学び合い』は、この「なぜ」の連続です。

高学年の社会をやっていればわかります。

子供たちの何がわからないかが、わからない。

子供たちが『学び合い』のなかで、思わぬ質問をしていることに気づきます。

「ところで、幕府、って何?」

この質問も言葉の意味なのか、ある幕府を示して言っているのか、わかりません。

『学び合い』のいいところは、この「なぜ」の連続で成り立っているからです。

以前、6年生の理科、月の満ち欠けがどうしても納得できない子がいて、周りを子供たちが囲んで説明を続けるという場面に出くわしたことがあります。

「どうして、月の形は変わらないのに、欠けて見えるのか」

がその子にはわからなかった。

周りの子供たちは、

「そんなこと、なんで聞くの?」

となっていた。できる子だったから、余計にそうなった。

こんな「なぜ」が出始めると、「なぜ」が続いて、とても面白いことになる。

教師は笑ってみていればいい。

授業の面白さは、ここにあると私は思っています。

予定通りに、進むだけが授業ではない。そんなことには、授業の醍醐味はない。

思考も深まらない。

当たり前の事だけど、ここに記しておきたい。

引き算の指導

コロナ対策で一度はなくなったように見えた行事が復活しています。

私の勤務地は、コロナの感染がほとんどないところです。

田舎なので、車の移動がほとんどですし、「密」もありません。

夜の町へ出て行けば、別でしょうが、行く必要がありません。

「緊急事態」のときは、そこそこの対策をしていました。

様子を見ながらですが、なくなったかのように感じていた行事が戻ってきています。

なくすことの難しさを痛感しています。

 

 

来月には、教育事務所の「支援担当訪問」があります。

希望していた教科が通らず、指導主事の指示で教科が変更になりました。

私は、徹底的に引き算の授業をするので、毎回

「ここにこれを足して」

というご指導を受けます。

いつか、

「これは要らない」

という引き算のご指導を受けてみたいと思っていますが、退職までの時間を考えると、それももう無理でしょう。

 

 

行事を復活させるのはかまいません。

その仕事を処理できる時間があるのかを問いたいのです。

勤務時間内に誰が担当になってもできるのか、と考えたいのです。

結婚して、子どもを育てている方でもできるのでしょうか。と考えたいのです。

すべてを自分の時間にできる方ならできるということは、もうすべきではありません。

少しばかり、抵抗したくなっています。

 

引き算は難しい

学校をスリム化することは本当に難しい。

スリム化とは今までやっていたことをなくすことです。

引き算です。

やってみると、これが本当に難しい。

なくしたことがすぐに復活してきます。

「これをやる時間がないので、こういう時間を確保して欲しい」

という言い方がすでにだめであることに気づかないのです。

やる時間がないものは削る。

勤務時間内に処理できないことは削る。

教育的な効果が期待できることでも、負担になっていることは削る。

「これはやらない」

と言える管理職でなければなりません。

軟弱で弱腰の管理職は、「教育委員会が」「指導主事が」と言って、引き算することはできません。

まさに管理職としての管理職の能力が問われる場面です。

膨らむだけ膨らんだ仕事を具体的にどのように減らしていくのか、減らせばいいのかを考えて、実行できる管理職なのかが問われています。

私は、徹底的に『学び合い』の人間なので、徹底的に引き算の授業をします。

指導主事がやってきて、授業を参観する「支援担当訪問」でも、いつものように引き算の授業をします。

授業後の「ご指導」の時間には必ず

「ここをこうやれば、もっと…」

という言い方をされます。それを削った意味が見えないのです。

何でも、つけ加えればいいと思っている。

徹底的な引き算の授業をしていると、多くの授業でやっていることが必要のないことのように思えてきます。

 

パソコンやタブレット、動画などを使って、「最新の授業」のように見えながら、結局は教師主導の旧来型の授業の域を出ていないと感じてしまいます。一見すると、子供たちが自由に動き回っているでも、子供たちの活動の中にいろいろと面白い物が見えてくると嬉しくなります。

「新しいようでも、結局知識伝達型だなあ」

と感じてしまいます。

子供たちがどのように活動し、どのように知識や知恵を獲得したか、獲得しようとしたかと見ていると、実に楽しい授業を見ることができます。

何でもこなしていこうとして、時間が足りなくなり、休みの日まで働いているなんて、やはり正常な形ではないと強く思います。

 

時間を守る

校内研修でも、出張での研修でも、たくさんの指導者に出会います。

私が、若い頃に出会った柳生 力先生(当時、大阪教育大学)は

「良い指導者の見分け方は、どれだけ具体的かという一点に尽きる」

と指摘していました。

良い指導者を見分けるより、最近は、自分には合わない指導者を見分けるようになりました。

時間を守らない指導者とはあいません。

「お話ししたいことがたくさんあって」

と言い訳しつつ、時間を長引かせる指導者は私は嫌いです。

与えられた時間が20分間なら、20分間で何を話すのか、ギリギリまで考えて話していただきたい。

 

時間を守らない人は、いつも時間を守りません。

時間が超過するのは当たり前だと思っているのでしょうか。

「またこの人、きっと終わらないな」

と思っていると、本当に終わらない。

自己陶酔しているかのような話が続いて、聞いていてつらくなります。

それでいて、時間が超過する。

 

 

ついでに、指導者たるもの、もう少し、発言には気をつけて欲しいと思うことがあります。特に、校内研修などの公的な研修ではなおのことです。

「私の知り合いは、初任で勤務がきつくて、睡眠時間が2.3時間でがんばっています」

なんてことは、絶対に言ってはならないと思います。

これを指導者が公的な場所で発言すると、こういう働き方を奨励しているように聞こえるのです。今、一番変えなければならない働き方の流れに逆行しています。

こういう発言を何のためらいもなく、指導者として公的な場所でできるという配慮の無さが信じられません。言葉が軽いのです。

「あの人、いい人だから」

では済まされません。

公的な発言には、注意が必要です。

 

 

 

納得!

西川先生の9月10日の記事「立ち位置」を拝読し、そうだよなと膝を打ちました。

私は、これまで

「授業にこだわりのある校長は、校長になるべきではない」

と繰り返し発言してきました。

「校長の仕事はほかにある」

とも言ってきました。まして、校長の職にある方が、「授業のお手本」と称して授業をしてみせるなんてことはするべきではないとも思っています。

西川先生の言うとおり、校長の職能は違います。

校長としてするべき事は違うと私は思っています。

こういう校長がきたときには、静かに通り過ぎるのを待ちます。

出れば、打たれるに決まっています。お互いのためと思い、静かにしていました。

 

 

 

こんな私ですが、お一人だけ、退職してからも食事会が定期的に開かれて、毎回15人ほどの参会者を集める元校長先生の会に呼ばれます。この食事会が1年に2回定期的に開かれて、もう10年になります。

参会者も退職された方が増えました。退職後の生活の様子をお聞きするのも楽しみです。皆さん、お元気に退職後の生活を謳歌していらっしゃいます。

この校長先生は、授業についてもご高名な方でしたが、校長として授業について語ることは一切ありませんでした。校長としての職能を全うされました。

どちらのタイプの校長が尊敬を集めるのか、はっきりしています。

教材研究はしない

私は、ほとんど教材研究をしません。勤務年数も長いですから、どんな教材であっても初めてということはまずありません。

でも、新しい教材や授業を作ることは好きです。新しい挑戦となると、わくわくします。お偉い指導者がやってきて

「この授業の効果は」

なんて話をしますが、やっていない人にはわからないと思っています。

指導者から褒められる授業なんて簡単です。

指導者が

「何だ?」

「どういうこと?」

と思う授業をしたいと思っています。

最近の授業研究を見ていると、確かに手堅い展開ではありますが、全く面白くないという授業に出会います。

予定されていることがそのまま進む。

見ていて、つらくなります。

授業を考えていて

「ここで、子供たちがどう動くか」

という場面がないと、面白くありません。授業者にもわからない展開があるから面白いのです。

授業は、そうやって子供たちと教師が関わり合って作っていくものだからです。

もし、指導案から子供たちが関わっていたら、どうでしょうか。

授業の展開も、発問も子供たちの反応もすべて子供たちに公開されている状態です。

「ここで、俺たちはこういうふうに答えるのか」

と答えるでしょうか。

子供たちが、見事に指導案を裏切り、予想を遙かに超える展開を作っていったとしたら、どれほど痛快な授業になるか、考えるだけでわくわくします。

そんな授業研究をしてみたかった。

中学生なら、可能でしょうか。

小学校の高学年なら可能だと私は思っています。

拡大することなく

昨日の続きです。

学校は、とにかく拡大の道を進んできました。

パソコンが入り、英語が入り、プログラミングが入りました。

そのほかにも、例えば、体力向上を校内研修のテーマすると、朝の運動や行間体育が始まりました。次に国語が始まれば、朝の運動をやめて、朝の読書が始まりました。

それがいつしか、体育が終わっても、朝の運動を続け、さらに、朝の読書が始まるというふうになりました。こうなると、次々に増えていき、一度始めたことはやめられなくなりました。教師の仕事は膨大になり、勤務時間内で処理することができなくなりました。同時に、子供たちへの負担も増え続けました。

こうなると、手がつけられない常態になります。

その上、すべてに完璧を求める管理職がいます。

勤務時間はうなぎ登りに増え続けます。土日勤務が当たり前になります。

働き方改革を進めるのは、たとえ子供たちに効果があることがわかっていても、勤務時間を大幅に超える仕事はしないという教師の意識改革だと私は考えています。

 

 

コロナの影響で、多くの行事などが実施できなくなりました。

私は、これをチャンスと考えたい。

みんなが無理なく、勤務時間内で仕事を終えることのできる職場にしたいと思っています。