初めての2学期

コロナで休校した結果、授業時数が足りなくなりそうなので、夏休みを少し削りました。2学期の終わりが1日伸び、3学期の始まりも早くなりました。

私の場合、8月19日から12月25日までの2学期になります。

暑くて、熱中症を心配する気温から、もしかしたら雪が舞う季節までの2学期になります。

長い2学期です。もしかしたら、週休2日になる前の授業日数に近づくかもしれません。

私のような高齢の教師は、この長い2学期を知っています。若い教師の中には、自分が小学生だったころも含めて、長い2学期を経験していない方もいると思います。

その上、多くの行事が中止になっています。運動会がありません。

月曜日から金曜日まで、全く行事がなく、完全に授業できる日が続くのです。

私は、6年生の社会を担当していますが、遅くても10月末には、授業が当初の予定に追いつき、追い越す予定です。すでにほぼ追いついています。毎週きっちりと3時間あるのですから、進まないわけがありません。

「コロナの影響で、教師は多忙になっている」

という記事を読むことがありますが、私は授業をしていればいいので、無理のない生活をしています。

こんな2学期が来るなんて、思いもしませんでした。

 

 

来年度以降、今年度中止になった行事をどうするか、復活させるのか、改善して戻すのか、縮小か、中止か、たくさん検討しなければならないと思います。

私は、多くの行事を復活させることなく、中止にして欲しいと願っています。私が若い頃にはなかった行事がたくさんあります。学校はもっとすっきりと運営されていました。

それが、いつしか行事の拡大へと舵を切っていました。一度切った舵は、なかなか戻せないものであると気がつくこともなく、拡大へと進みました。国語ならこれをやろう、算数ならこれをやろう、体育ならこれ、と一度始めたことは、増え続けました。

「子供たちのためですから、先生方、計画的に進めてください」

という管理職からの言葉を何回聞いたことでしょうか。

拡大しきった学校行事をすっきりさせる機会が与えられたと考えたいと思っています。

 

 

私は、あと1年半で定年です。再任用されたとしても、もう会議で発言することはないでしょう。

老兵は死なず、ただ消え去るのみ」

です。

 

 

 

幸運

「純喫茶」に少しだけ参加しました。

西川研究室の方々のお話を伺いました。

お話を伺ったあと、

「運が良かった」

とつくづく感じました。

 

私が大学院に行き、西川研究室に所属したのは、2005年4月から2007年3月までの2年間です。県の長期研修として、派遣されての2年間でした。

その前、2003年度、理科担当教師の研修会に西川先生が招聘されて、たまたまそのご講演を拝聴しました。理科の話より、『学び合い』の話が中心でした。当時はまだ『学び合い』という表記もありませんでした。

私は、理科の教師として、大学院に派遣されました。

西川先生は、『学び合い』の研究の裾野を理科以外にも広げようとしているところだったと思います。

「家庭科でできるかどうか、やってみたい」

というお話を伺ったこともあります。

私が所属していた時期は、『学び合い』が広がっていくかもしれないという時期だったと思います。研究室に所属していた同志たちは、それぞれ大変に面白い研究をしていました。それが広がっていくという確信が先生にはあったと思いますが、私は純粋に

「この研究、面白いなあ」

と相当に苦しみながら、思っていたと思います。

先輩方と学会に参加したり、自分でも参加して発表したりすると、

「それは」

と強い批判を浴びることもありました。

私は2年間の研修が終わって、教育事務所にご挨拶に行ったときに、時の担当から

「教師が教えないで、誰が教えるのですか」

と強い口調で「ご指導」頂いたこともあります。

批判もありながら、

「でも、『学び合い』って、効果もあるし、面白いんですよ」

と言い続けていく楽しさがありました。

職場は、まだ15年前とあまり変わりません。相変わらずの異端児です。

でも、これもなかなかに面白いと思っています。

私にとっては、とてもいい時期に研究室に所属できたと振り返っています。

 

評価について

ある同志から相談を頂きました。

 

校内研修で、評価の研究をしているだが、振り返りをすることで学力は上がるのですか。

子供たちに、どのように振り返りをしたら良いか、いい助言がありますか。

 

 

振り返りですから、自己評価についての話です。

自己評価で学力は上がりますか、という問いです。

私は

「上がります」

と答えました。というより、自己評価以外で上がる方法があるのかと思います。

そもそも、評価とは何でしょうか。

評価の目的は何でしょうか。

子供たちに、そのそもそもを語っているのでしょうか。

「自己評価の目的は、…。」

ときちんと語っていれば、子供たちは自己評価をして、学習を改善します。

自分の学習を振り返って、改善点を見つけて、次の学習に生かすことこそが、評価であるわけです。

だから、自己評価で学力は必ず向上します。

学力が向上しない評価は、評価の活動ではないのです。

私は、この振り返りのときには、学習の目標がとても大切であると思っています。

その目標を達成したかを自分で評価する。目標に十分達していれば、自己評価が高くなるのです。この評価活動では、評価規準も公開して、その評価規準に照らして自己評価すれば間違いありません。

この時に、近くの友達に

「俺の学習どうだった?」

と聞いて、お互いの学習を評価し合えば、相互評価も加わって、とても良い評価になります。

「次の時間、お互いに頑張ろうぜ」

となれば、最高です。

目標を意識しない評価であれば、所詮振り返りは、自分の印象をかくだけです。

「頑張りました。」

「楽しかったです」

となるだけです。

これでは、学力向上は望めない。

いかに、目標に対する評価をするか。

目標準拠評価です。

 

 

さらに言えば、自己評価する力をつけるということは、メタ思考の力をつけることにもなります。自分の学習を、もう一人の自分が評価する、もう一人の次元の違う自分を自分の中に育てるということです。メタ思考を意識して、育てていくという場面はあまりありません。でも、自分の中に、もう一人の自分を置くという作業は、大変に知的な学習でもあります。

 

評価のことを考えると、いろいろに楽しくなります。

読解力

前項に続いて、本の話。

 

榎本博明著

教育現場は困っている

平凡社新書 2020年6月

 

 

前項の「AIに負けない子どもを育てる」は、読解力を6分野7項目に定義して、その能力を測ることで読解力を向上する方策を考えていました。

「教育現場は困っている」では、この読解力の低下を指摘しています。

教育関係の本を続けて読んだら、どちらも読解力が鍵でした。


『学び合い』の中で、この読解力をどのように向上していくのか、またその目的は何か、考えるべき材料はたくさんあります。
今まで、「読解力とは何か」を議論するだけで終わっていた時代がおわるかもしれません。読解力を定義して、数値化した研究が出てきたからです。
今後、読解力はこの定義を巡る議論になりそうです。

でも、この議論、宇佐美寛先生に強い影響を受けてきた私は、やっと宇佐美先生の研究に目合う実践が出てきたとも感じています。

 

 

例えば、「社会科見学」という作文を書くとします。

自分が見てきたことや聞いたこと、感じたことを書くわけです。

私は、こういう時に

「社会科見学を家の誰かに伝えるとして、書いてください。」

と、読み手を設定します。

書く内容は、読み手によって変化します。

伝言ゲームというゲームがあります。

短い文章を伝言していって、上手く伝わらないことを楽しむゲームです。

私は、「伝言ゲーム破り」をします。

状況や目的を設定すると、うまく伝わってしまうです。無目的に伝言する場合と、目的をもって状況を設定すると、伝わるのです。

コミュニケーションは、状況に縛られるのです。

当たり前の話です。

極端な場面設定かもしれませんが、結婚式と葬式では違うコミュニケーション状態です。ここまで、極端でなくても、日常的には当たり前の話です。

このコミュニケーション状態を無視して、コミュニケーションが成り立つかのような授業が不思議でした。

読解力の向上も、どういう目的でどういう相手に何をどのように伝えるのか、と考えればそれほど難しい事ではないと感じています。

やっと、読解力の研究が始まっていくような感じがしています。

 

 

読解力とは何か

AIに負けない子どもを育てる

新井紀子著 東洋経済 1600円+税 2019.9

 

を読んでいます。

前著もすごく面白かったけれど、この本はさらに面白い。

この本では、AIの発展にどのように対抗していくかが書かれている訳ではありません。子供たちの読解力をどのように定義して、テストして、どのようにつけていくのかを取り上げています。

国語の専門家はどのようにこの本の指摘を読んでいるのか、聞いてみたくなります。

 

 

 

「聞き手にわかるように書く」

という提案があります。国語では作文を沢山書かせてきましたが、読み手を意識させると作文は劇的に変化します。

私は、これまでも作文を書かせるときには

「読み手は先生です」

「読み手は、家の誰かです」

と読み手を意識させてきました。

同時に、どういう目的で、どういう場面で、と意識させてきました。

どういうコミュニケーション状態の作文なのか、で、コミュニケーションのあり方は変わってしまうという当たり前の授業をしてきました。

実は、これが大切であると指摘しています。

これは、宇佐美先生の受け売りです。

伝言ゲームというゲームがあります。

うまく伝わらないから面白いというゲームです。

私は

「伝言ゲーム破り」

も好きでした。

コミュニケーション状態を設定すると、うまく伝わってしまうのです。

例えば、

「電話の緊急連絡網。明日の運動会の日程の変更についての連絡」

として、文章を回します。

伝わってしまうのです。

どういう状況で、どういう目的で、誰に対して、と設定して、この場面に応じた言葉遣いを意識すると、文章は正確になっていきます。

これが大切であると指摘しています。

 

 

P279に、『学び合い』を進めている方なら、手を打って喜びそうな指摘があります。

 

 

この本には、読解力を測るテストが付いています。

体験版なので、正確にはさらに本格的なテストを受けなければなりませんが、なかなかに面白いテストでした。

 

第2波に備えて

感染拡大のニュースが続いています。

学校の現状では、第2波に備えているようには思えません。

至って変化のない生活をしています。

私は、こう見えて結構慎重に仕事をしています。

子供たちとの距離をとり、必要以上に話をしません。

 

 

おそらく、夏休みが来るのを待っているのでしょう。これは憶測です。何の根拠もありません。

2週間程度は休みです。

学校からの感染拡大はありません。

その間、学校以外の感染が拡大したら、夏休み明けに何らかの方針が出るのかもしれません。私は、どこかで決まってきたことを忠実にこなすだけです。

次の波が来ての学校の対応を見たら、西川先生の言うように、公立を捨てる保護者が現実的に出てくるように感じています。

 

何とかコロナの感染が終息して、今よりも少しはましな生活が一刻も早く戻ってくることを願っています。でも、まだまだ先の話でしょうね。

議論する2

議論できる人は、正解を留保できます。

とりあえず、正解を留保する。何が正解であるかを問わない。

「私が言うことが正しい」

という言い合いでは議論になりません。

「私はこう考えるけど、どう?」

という態度です。

議論をすることで、新しい見方や考え方が生まれる。

「そういう考えもあるなあ」

「思いつかなかった」

と感じることができれば、本当に楽しい議論です。

楽しい議論をするために、たくさんの本を読みます。

相手もたくさんの本を読んできます。

議論は入り乱れて、次々に新しい展開をして、わくわくして終わります。

次が楽しみになります。

そういう会に、つまらない人は呼びません。居丈高な言い方になりますが、つまらない人には同席して欲しくないのです。

西川研や『学び合い』を通して出会った人には、つまらない人はいません。いつも、自分にないものを見せてもらいました。そういう人でないと、『学び合い』によってこないのかもしれません。

 

さて、6年生の社会の議論です。

縄文時代弥生時代を分けているものは何か」

です。

教科書的には「狩猟と定住、米作り」あたりになるのでしょうか。

「支配者が現れた」

なんて答えもあるかもしれません。

ある日、突然縄文時代がおわり、弥生時代が始まるなんてことはありません。

じわじわと移り変わっていったのでしょう。

これも考えてみたいテーマです。

 

 

私は、

「時間の長さ」

だと思っています。

もし、弥生時代縄文時代ほどの長さになっていたら、まだ弥生時代です。

弥生時代もそんなに長く続かず、いくつかの時代を経て、現代につながっています。

では、どうして時間の長さが変わってしまったのか。

かなり、面白いテーマになりそうです。

 

 

もうすぐ、歴史の勉強が始まります。

今年は、また違う授業をしようと思っています。

担任ではないので、無茶はできません。