できるのか

今年度特別支援学級の担任ですが、6年生の社会科を持っています。

学習指導要領の社会科の目標には、次のように書かれています。

長いですが、引用します。

 

 

〔第6学年の目標〕  

社会的事象の見方・考え方を働かせ,学習の問題を追究・解決する活動を通して,次のとおり資質・能力を育成することを目指す。
(1) 我が国の政治の考え方と仕組みや働き,国家及び社会の発展に大きな働きをした先人の業績や優れた文化遺産,我が国と関係の深い国の生活やグローバル化する国際社会における我が国の役割について理解するとともに,地図帳や地球儀,統計や年表などの各種の基礎的資料を通して,情報を適切に調べまとめる技能を身に付けるようにする。
(2) 社会的事象の特色や相互の関連,意味を多角的に考える力,社会に見られる課題を把握して,その解決に向けて社会への関わり方を選択・判断する力,考えたことや選択・判断したことを説明したり,それらを基に議論したりする力を養う。
(3) 社会的事象について,主体的に学習の問題を解決しようとする態度や,よりよい社会を考え学習したことを社会生活に生かそうとする態度を養うとともに,多角的な思考や理解を通して,我が国の歴史や伝統を大切にして国を愛する心情,我が国の将来を担う国民としての自覚や平和を願う日本人として世界の国々の人々と共に生きることの大切さについての自覚を養う。

 

私は授業をするにあたり、この目標を読んで

「できるのか」

と思ってしまいました。

例えば、(2)の「それらを基に議論する力を養う」はできるのでしょうか。

だいたい「議論する力」を持っている教師がどれほどいるでしょうか。

学生の時、教師になってから、「議論する」ことを経験してきているのでしょうか。

ある先輩に

「若い先生とは議論にならない」

と愚痴ったら

「そりゃそうだよ、議論なんてしたことないんだから」

と言われたことがあります。私は、その先輩と議論するためにだけ、お酒の席でお会いしています。

もうひとつ、議論しないで議論する力を養うことができるのでしょうか。

「畳の上で水練」

という感じがするのです。

議論の力を養うには、議論するしかない。

授業で議論させるには、それなりの議論に値する論題が必要です。

そんな論題を子供たちに提示できる教師がどれほどいるでしょうか。

1年間を通して、議論する社会科の授業をやるとなれば、相当な覚悟も必要でしょう。

 

 

私は、この目標を読んでから

「もし、議論するテーマを10個作れたら、本になるなあ」

と思っています。

とりあえず、2つのテーマが確定しています。

コロナの対応で思うように授業ができないながら、新しい授業の展開を考えています。

 

 

 

働き方改革

「仕事が多くてできません」

と言ったとします。

その仕事は、誰かがやらなければならない、消すことのできない仕事だとすると、誰かがやらなければならない仕事です。

例えば、私が

「できません」

というと、教頭先生がやるということになります。

すると、私はあまり強く

「できません」

が言えなくなります。

働き方改革が進まないわけは、その仕事をなくすことができないからです。

 

 

一方で、なくすことができるのも、現場の人間だけです。

「仕事が多くて大変。誰か減らしてくれないかなあ」

と言ったところで、誰かが仕事を減らしてくれるはずはありません。

自分で減らすしかない。

「これをやめる」

と決意して実行すれば減らすことはできます。

私は徹底的に『学び合い』の発想なので、基本的に「仕事を切る」ということに躊躇はありません。いかに効果が期待されていることでも、大幅に勤務時間を超えるような仕事に対しては「切る」ということを躊躇なくやります。

膨れ上がった仕事をどのように減らすのか、私のような定年直前の立場の教員がやらなければならないとも思っています。

私が教員になった頃には、まだパソコンはありませんでした。

英語も、まさか教科になっているとは思いませんでした。

春の遠足はなくなりましたが、ほかになくなったものは多くはありません。

増えたものばかりを思いつきます。

増えたものばかりなってから、教員になった人たちには、仕事を減らすことはできないでしょう。あるのが、当たり前のものを減らすことはとても難しいからです。

 

子供たちが毎日学校に来るようになって、子供たちが帰った後の毎日の消毒と清掃がだんだん負担になっています。多くの学校で職員が総出で消毒をしています。

この負担を考えると、軽い目眩を感じます。

いつまで続くかわからないこの消毒という作業が、教師集団に及ぼした痛手がいずれ大きく跳ね返ってくるかもしれません。

逆手にとる?

例えば、国語で

「音読はだめです」

と言われると、

「子どもがちゃんと読んでいるかわからないから、どうしたらいいかわからない」

と言われます。

音読はだめなのだから、黙読にして、教科書よりもずっと難しい、おもしろい、ためになる、子供が好き、な本をどんどん読ませればいい。

教科書にこだわっている必要なんか、まるでありません。

学校の図書室が空になるほど、みんなが本を教室に持ってきて、片っ端からどんどん読んでいけばいいのです。

「それで、読みの力はつくのですか」

という質問には

「読めばいいのです」

と応えればいいのです。

何なら、宇佐美寛先生の「国語科授業における言葉と思考」をお勧めしておけばいいのです。

この本の中で

「読めばいいのだ」

が繰り返し出てきます。

考え方によっては、「質より量でしょ」ということでもあります。

この機会に、いろいろな本を子供たちにどんどん与えてみる。

物語だけでなく、料理の本、昆虫の本、落語、マンガ、歴史書、次々に手に取らせる。

読み通す必要はありません。

とりあえず、1ページでもいい。読んでみる。

そんな国語の授業を始めています。

毎日、私は図書室に行き、本を教室に運んでいます。

 

変わりようがない

昨日から、段階的に学校が再開になりました。

午後は、職員で今後の対応についての意見交換。

いろいろと出ましたが、私は、現段階でネット授業が最善であると感じました。

「ネット授業に対応できない保護者がいるので、現段階ではネット授業は始められない」

という感じになりました。

声を出せない、呼吸は最低限にするとなれば、音楽の授業は鑑賞と楽典の学習だけになります。

体育も、「呼吸が上がらない程度」となれば、できる運動は限られます。

接触もできません。バスケットボールなどはできません。

調理実習も制限があります。

ネット授業以外で、ネット授業よりも優れているものは現段階ではないと思います。

一刻も早く、ネット授業を取り入れないと、西川先生の言うとおり、公教育は保護者に見捨てられると思います。見切りをつける保護者が2割現れたら、雪崩が起こるような速さで現状が変化していくでしょう。

もはや、この現実を止めることはできないのではないか、と感じます。

無責任のようですが、私のような定年間近な立場の人たちは、この変化について行くよりも退場を選ぶと思います。私も退場を選びます。

保護者に見切りをつけられた公教育が行き着く先は、どこでしょうか。

もっと早くに動くという選択肢はなかったのか、残念でなりません。

 

再開準備

6月から段階的に学校が再開になりそうです。

先生方は、授業の始まりの準備に余念がありません。

時数が足りないことを想定して、無駄のないの授業をしようとしているようです。

私は、

「こういうときに大切なことは何か」

を考えていました。

時数が足りないときに、教師がすべきこと。

子供たちをその気にさせることだと思います。

時数が足りないからと言って、詰め込みになったら、ますます子供たちの意欲は減退して、時数が必要になってくるでしょう。

時数が足りないことは、わかっています。

子供たちをいかに意欲的にさせるか。

ここにかかってくると思います。

私は、骨の髄まで『学び合い』なので、子供たちが授業の中で、主役になることだと思っています。

とりかく、任せる。

「ここを5時間でやってね」

と言う。

それしかないと思っています。

いろいろとプリントを作って、教師の思うように授業を進めれば進めるほど、子供たちの意欲は下がり続けると思っています。

「問題集一冊、授業でやるとしたら、1年かかるでしょ。でも、自分でやるとしたら、1ヶ月あれば十分。子供たちにやらせるというのは、そういうことだよ」

と言われたことを強く思い出します。

 

『学び合い』は考え方である

こういう非常時代の時ほど、そもそもの原則に立ち戻りたいものです。

 

『学び合い』は考え方である。

 

西川研に2年間在籍していて、この言葉の意味がわかるまでずいぶんと時間がかかりました。

「『学び合い』だから、話し合いがありますよね。」

「話し合いをどう指導しますか」

「班の作り方を教えてください」

など、

「話し合いをするのが、『学び合い』でしょ」

とずいぶん言われました。

「考え方」ですから、話し合いという形式ではありません。

教師がどういう考え方で授業を組み立てているのかが大切になってきます。

子供たちが自由に出歩き、話し合い、課題をみんなで解決していく授業をやりたいですが、今の状況ではできません。だからといって、『学び合い』の授業ができないかと言えば、そんなことはありません。

分散登校で、半分しか来ていないという状況だから、できることがあるはずです。

A班は授業の進み具合を黒板に書いて帰ります。

B班は、その黒板を見て学習します。最後に、B班の進度を黒板に書いて帰ります。

別に黒板に書かなくても、いいのです。

教師が、A班のAさんのノートをコピーして掲示する。

次に、B班のBさんのノートをコピーして掲示する。

次は、Cさんのノートを掲示する。

そんな繰り返しでも、教師が時間に追われて、せこせこと進める授業よりはるかにましです。

みんなができるように、みんなが少しずつできることを続けていく。教師だけが、考え続けるのではなく、みんなで考えて進めていく。

『学び合い』の考え方なら、当然の発想だと思っています。

 

時数の問題もそうです。

「ここは、計画では6時間ですが、6時間をとることができません。

テストを入れて、5時間でお願いします。」

と言えば、子供たちは、どうゃって5時間で仕上げるのか、考えます。

教師よりずっとましです。

 

先生方の話を聞いていると

「どうして、もっと子供たちの力を借りないのだろう」

「どうして、子供たちを信頼しないのだろう」

と感じます。そうやって、何でも自分でやろうとして、結局自分ですべて背負ってしまって回らなくなる。

私は、子供たちと相談して考えることがとても多くなりました。

 

学校再開の目処が立ってきて、いよいよ楽しくなりそうです。

 

スキルアップ

新しい事を始めようとすると、真面目に考えます。

いろいろと考えて準備しているうちに時間がたってしまいます。

いろいろと考えているより、とりあえず始めてしまった方が早いという場合もあります。失敗しても、命に関わらないなら、その方がいいとも思っています。

Zoomを使って、サークルのメンバーと意見交換をするようになりました。

身内ですので、何があっても、責められることはありません。

トラブルがおこったときに、どのように対処するのかがわかってきて、みんなのスキルが上がります。

交代で、ホストになって招待するという方法を始めました。

毎週末、違うホストが招待を出してくれて、情報交換会をやっています。

「習うより慣れろ」

です。昔の人はいいことを言いました。

 

私の勤務地では、ネット授業がまだ始まっていません。その兆候すらありません。

いざ、始まったときに、自分でいじったことがあれば、問題なく取り組めます。

ある程度のトラブルも解決できるようになっていたいです。

とりあえず、ネットでの情報交換会が始まりました。