授業はコミュニケーションである

最近気づいたことですが、

「授業はコミュニケーションである」

という当たり前のことです。

 

 

数年前から、研究授業がつまらなくて仕方ありませんでした。

特に、指導案通りに進む授業が退屈でした。

授業後の研究会で司会をすることになっている授業ですら、退屈で眠くなってしまいました。

指導案通りに進む、評価の高い授業が退屈だなんて、私はどうかしていると思っていました。教師としての賞味期限が来ているのか、退職すべきであるのかとも思っていました。

当たり前ですが、授業は生ものです。生きている子供たちと教師がしゃべるのですから、話がどこに行くのか正直分からないものです。

まして、担任であれば、「どこまでの脱線なら大丈夫か」なんて、子供たちも考えています。この担任脱線してしゃべり始めるとどこまで行くか分からないと、子供たちが思い始めると、いろいろな手を使って、仕掛けてきます。

子供たちの仕掛けに、どこまで乗るのか、乗らないのか、さらにどうやって切り返すのか、など、私は楽しくなってしまうのです。

「あ、だから指導案通りの授業はつまらないのか」

と気づいたのです。どこに行くのか、何に行くのか、分からない展開の方がずっと面白い。どうやって、この授業とこの話を関連付けるのか、これも面白い。

「先生、質問があります。どうして地球には水があるのですか」

と唐突な質問が飛んできます。

理科の時間に、この質問に少し応えます。

すると、また次の質問がやってきます。

そんなことをしていると、子供たちが次々と質問をしてきます。

それをどのように生かすのか、これも面白い。

子供たちと、そういうやりとりをしながら、授業を進められるので、私は自分の授業には全く退屈していません。

研究授業でも、思わぬ子供の発言からあらぬ方へ話が進むと、私はわくわくするのです。そのときに、その教師の本当の力、授業のコミュニケーションが試されていると思うのです。