おさまらない

昨日書いたことの続きです。

「○○方式」がどうしても気に入らない。

昨日書いたのに、すっきりしません。

私は、目標は共有するけど、様々な取り組みが混在する学校が好きです。

「この学校は、目標を共有するけど、取り組みは自由です」

というスタイルを「○○スタイル」と呼んでも良いはずです。

これこそ、私にとっては、最高のスタイルです。

例えば「学力向上」という目標は共有する。

でも、取り組みは担任に任される。ひとつの方法に縛られることはありません。

自分がいいと思う方法で学力向上を図るわけです。子供にとっては、この方法は合うけど、これは自分には合わないとわかる。合わなくても、1年間我慢すれば、次の可能性がある。子供にとっても、なかなかに良い方法だと思うのです。

当たり前ですが、一番いいのは、『学び合い』です。

自分でどの方法が良いのか決められます。

実際、私のクラスでは教師の指導を拒否した子供がいました。

「どうしても分からないときだけ、質問する」

というルールをとっていたので、そのときだけ説明をしていました。

私が説明をしているうちに、分かってしまうらしく、最後まで話を聞いているようには見えませんでした。

私は、教科書を読んで理解する。

僕は、友達と話し合う。

みんなバラバラで良いではないですか。

私は、こういう授業が好きです。

 

 

以前、校内研修が個人研修になったことがありました。

自分で好きな教科で1年に一度を授業を公開するという方法でした。

私は、この方法が好きで、好き勝手に理科の授業をしました。

完全な『学び合い』の授業でした。

1年間が終わって、先生方の感想に

「指導案の検討もなく、何を研修したのか分からなかった。」

というのがありました。

私は、これを見て笑いました。

「これって、自分が学ぶ力がなかったということでは?」

と思いました。

どんな授業を見ても、学ぶところはあります。

「このようにしたい」

もあれば

「これは絶対にしない」

というのもあります。

どちらも学びです。

 

以前から、

「指導案の検討は無意味」

と言っていた私は、今年から指導案の検討がなくなったことに拍手をしたいくらいでした。

今までも、私は指導案の検討をしませんでした。

しても、誤字脱字などだけでした。

問題は、指導案ではありません。

どんな立派な指導案を作っても、授業で子供たちが動かなければ、よい授業ではありません。簡潔な指導案であっても、子供たちが動いている授業は見ていて楽しくなります。

指導案は、授業者の思いや願いを語るものです。