指導過程を定型にしようという動きが活発になっています。
「○○スタイル」
とか言われて、算数なら授業の進め方を統一する方向で話が進んでいるようです。
小学校から中学校まで、すべての教科で授業の進め方が同じになる。
考えると、恐ろしい世界です。
その中に自分が居たくありません。
馬鹿馬鹿しい話だとも思います。
教師側からの教えやすさと、子供の側からの学びやすさは同じではありません。
もし、その指導過程が合わない子供がいたら、その子供にとっては地獄です。
「あーあ、また」
となります。
子供のわかり方は、みんな違います。どこで、疑問を持つか、どこで考えるのか、みんな違うのです。その認識の違いを飛ばして、みんな同じだという出発点が私には信じられません。
新しい漢字を覚えるときに、全員に10回の練習するように言うのと同じです。
一回で覚えられる子供もいれば、10回書いてもなかなか覚えられない子供もいます。
難しい漢字ならいつもより多く練習するでしょうし、簡単な漢字なら1回でいい。
どれが難しい漢字で、どれが簡単な漢字なのか、これは、本人しか分からない。
むしろ、そうやって自分で自分なりの漢字の練習ができる子供になってほしい。
どの教科でもそうです。
自分で考えて、自分でできるようになる。
これが一番です。
算数の問題なら、問題を読んだ瞬間に答えが分かってしまう子供がいます。
こういう子供は、説明ができません。
自分がどうして分かったのかがわからない。
だから、分からないという友達の言っていることがわからない。
分かるから分かる。それだけです。
同時に、自分のペースでじっくりと考えないと分からないという子供もいます。
わかり方は一様ではありません。
それをどうして、「○○スタイル」に押し込もうとするのか、私には理解できません。
教えやすさと、学びやすさは、別物です。
私は、漢字練習の宿題について
「自分ができるように練習してきて」
と言っています。それをいいことに、宿題を少なくする子供もいます。
そういう子供には
「何回も言うけど、自分ができるように練習してきてくださいね。」
と繰り返して言います。
テストの結果が良くなくても、怒ることはしません。
自分で考えて、自分の結果をよくしようと思うまで、待ちます。
待っているうちに、1年が過ぎていくこともあります。
仕方ありません。
私の言うことが通じなかったのか、わかりません。
自分でできるようになるというのは、とても大切だけど、簡単に身につく物ではないと思います。
それを私の名前をつけて
「○○スタイル」
という事も可能でしょう。
自由に自分できめていいというのが、「○○スタイル」と呼ばれるのなら、嬉しいですけど、そんなふうにはならないでしょう。