限界

「学びの共同体」が指導する授業を参観しました。

なかなかいい授業でした。

しかし、私には、以前にも書きましたが、「学びの共同体の授業の限界」がやはり見えてしまうのです。

「グループは4人組、男女混合で座席は市松模様

と言います。それはそれでいいのです。

ここで、2つの限界を感じてしまいました。

1 話し合いが行き詰まったら

4人の組み合わせは、教師が決めています。

たまたま見ていたグループで、話し合いが全く進みませんでした。話し合いにならなかったのです。隣のグループは、とても活発に話し合っていました。一方で、全く話し合いにならないグループがありました。

そうなると、教師の出番です。教師が入って、いろいろとアドバイスをしていました。

それでも、教師がいなくなると、話し合いは停滞したままでした。結局、最後に教師が黒板に書いて解説しました。その板書を子供たちは写していました。

どうして、他のグループと話し合うことを禁止するのか、私には分かりません。

2 4人のうち、3人は分かっている。あとの1人は

「分からないよ」というAさんを囲むように3人がいるグループがあります。

3人は、いろいろとAさんを教えようとします。その努力はとても尊いものだと思います。

でも、です。

Aさんは、そもそもその3人に教えてもらいたいのでしょうか。その3人の説明が分かるのでしょうか。

 

これは、私の強烈な経験です。

あまり学習意欲の高くない子供がいます。Bさんとしましょう。私もBさんに様々な関わりを持とうとしました。それでも、Bさんが学習しようとはしませんでした。

『学び合い』を進めていたときも、ずっとBさんが気がかりでした。

そんなときに、CさんがBさんに教えているところをたまたま見つけました。Cさんもあまり学習意欲が高い子ではありません。でも、確かにCさんがBさんに教えていました。

Cさんを見ていると、まず勉強のよくできるDさんのところに行きます。Dさんの周りにはたくさんの人が集まっていて、いろいろな会話が進んでいます。その中で、Dさんにしっかりと教えてもらっていました。そして、Cさんはわかると、Bさんのところに行き、Bさんと一緒に問題を解いていました。

私は、この姿を発見した驚きを忘れません。出来る子が最善の教え手ではないという考え方を確認した瞬間でした。

Cさんが理解するまで、かなりの時間を要します。それからDさんの所に行くので、時間が足りなくなるのです。でも、Bさんは、Cさんを待っているのです。

グループの作り方が問題なのではありません。

「『学び合い』は考え方だ」

と言われるのは、このあたりにあるのだと思います。

グループの作り方も、机の配置も、すべて技術論です。考え方ではありません。

CさんがBさんに教えると分かって以来、私はすごく楽になりました。前担任に話したら、

「Bさんにこういう方法があったんだ」

と驚かれました。

結局、グループの作り方も配置も「子供は有能である」という児童観がないから、教師が決めてしまうという指導になってしまうのです。

「グループでの話し合いが行き詰まったり、グループにどうしても合わない人がいた場合、どうしますか」

という質問にどのように答えるのか、または、答えられないのか、私はとても興味があります。

『学び合い』なら、この問いに正面から答えることが出来ます。