脱工業化を語る言葉

西川先生が繰り返し、脱工業化について語られています。

すでに、工業化の時代は終わっているのに、相変わらず工業化のコードで語られていることを嘆いています。

そんな中で、内田樹氏と想田和弘氏の対談本

「下り坂のニッポンの幸福論」清幻社

にこんな記述がありました。

 

54ページです。

 

産業はさらに高度化して、今「価値あるもの」を生み出しているのは第四次産業革命以降の産業です。AIとか、ロボット工学とか、バイオテクノロジーとか、仮想現実とかが「価値あるもの」を生み出す基幹産業へシフトしている。でも、僕たちはまだそういう産業について輪郭のはっきりしたイメージを持っていない。仕方ないので、いまだに時代遅れの工学的比喩で学校教育を語っている。

 

この部分を読んで、

「あー」

と感じてしまいました。西川先生のいう脱工業化は現実になっているけれど、それを語る言葉がない。何という指摘だろうと感じ入ってしまいました。

どのように語ろうとも、結局現状に縛られています。自覚なしに、工業化のコードで語ってしまうのです。脱工業化の言葉を知っている人が居ないのですから、誰もが現状の言葉で語るしかない。

指導者が一所懸命に新しい教室について語ろうとすると、どうしても工業化のコードで語ることになる。私はそれを「古くさい」と思う。結局、現状をどのように訂正していくか、のレベルになってしまう。言葉遣いが古くさいから、新しい事を語れない、語っているように思えない。

「結局、今までと同じでいいんかい」

となってしまう。だから、何も変わらない。

言葉遣いが「工業化」から抜け出せないから、いつまでたっても何も変わらない。

難儀なものだと思う。

新しい教育を語るなら、新しい言葉で語らないと。

とても難しい問題です。