旦那衆

内田樹氏が書いているように、かつての町の旦那衆と言われる方々は、趣味として実用として、趣味の世界を大切にして居たと言います。

例えば、茶道を究めようとすれば、茶道の師匠のところに通い、お稽古をしていたわけです。

その場では、どのような立場の人であれ、対等です。自分の店では、誰からも厳しいことを言われない様な立場の人でも、師匠の前では弟子です。弟子であれば、兄弟子がいて、自分が出来ないことがあり、時には師匠からの厳しい指導を受けることになります。

そうやって、旦那衆と呼ばれる人たちは、自分の店とは違う顔を持ち、決して自分が偉そうになることを自制していたそうです。

内田樹氏が書いているのは、このことです。どの本に書いてあったのか、分からないので、曖昧な引用でもうしわけですが、こんな内容だったと思います。

 

教師を長くやっていると、この旦那衆のように、自分に小言を言う人もとても少なくなります。1年間職員室にいても、一度もない年もあります。

知らないうちに、高慢になっている部分があるように思います。

「あの人、どこであっても、先生だよね」

と揶揄されます。私から見ても、教師が人間やっているような人がいます。

3年ほど前から、地域の小さなオーケストラに参加するようになりました。私より年上の方もいらっしゃいますが、私の子供よりも若い人たちもいます。若いながらも、楽器をとても上手に演奏される方もたくさんいます。時々、プロの方の指導を受けますが、あまりの実力の差に圧倒されてしまいます。一音出しただけで、プロとアマの違いを痛烈に感じることが何回もありました。

普段、何気なく弾いているピアノも、プロが弾くと、最初の音から全く違いました。

衝撃的な体験です。

そんな中に自分を置いていたら、内田樹氏の書いたものを思い出したのです。

「俺って、旦那衆と一緒」

とにかく、思うように演奏できません。リズムも音程も、合奏の技術もすべて上手くいきません。

「上手くいかないなあ」

と思っていると隣ですらすらと演奏している若者がいます。

社会的な立場とか、年齢とか全く関係ない、フラットな世界があります。

私は、上手く弾けなくて本当に苦労しています。

でも、そういう場に自分の身を置いてみることがとても大切であると強く感じるようになりました。

皆さん、紳士淑女なので、上手く弾けないからと言って、文句を言う方はいません。

でも、自分で何だかがっかりして落ち込みます。

 

 

私と同年代、またはもっと上の先生方には、茶道の師範を持っている方や、華道で免許皆伝の方、書道で師範の方がいらっしゃいました。職員室にお茶の道具が置いてあって、放課後職員室でお茶を点てて、みんなで頂いたこともあります。

そういう方々も、やはり旦那衆と一緒だったのです。いや、そういう文化があったのかもしれません。

残念ながら、今の若い方を見ていると、そういう世界をお持ちの方は、本当に少なくなったように思います。

教師の多忙が問題視されていますが、厳しい採用試験を通り抜けた先生方が人としての厚みを作っていくくらいの時間が確保されるようになって欲しいと思っています。