私は
「自分の理想のクラス」
なるものを持ちません。
いつの頃からか、担任として理想のクラス像のようなものを持たなくなりました。
それは、文章にしてあるとか、掲示してあるとか、そういうことではなくて、毎日の積み重ねで子供たちが決めることだと思っているからです。
校長が、自分の学校像のようなものをお持ちで、それをこちらの意向を聞くことなく、実行に移したら、それは、この上のない迷惑な校長であると思います。
かつて、いましたけど。
最初の挨拶で
「私の意向に従わないで起こった問題について、責任を負いません」
と宣言されました。私は、びっくりしました。
「これって、そもそも民主主義の原則に反するけどなあ」
とまず思いました。
校長が一人でしゃかりきになって、学校を運営するよりも、教師の集団がどのような学校にしたいのか、やはり考えるべきだと思います。
子供たちの側に立つと、いろいろなことを感じます。
やたらと理想に燃える教師も、ある意味迷惑です。
私は、子供たちに
「一人も見捨てずに、みんなができるように」
という目標を提示します。
あとは、子供たちがどのように進めていくのかを見ているだけです。
この方針以外は、どのようなクラスになるのか、したいのか、子供たちが決めることです。
どのようなクラスにしたいのか、どのようなクラスがいいのか、それは子供たちが毎日の積み重ねで決めていくことです。
あまりにも、どうしようもない状態になったら、担任として手を打つことがあるかもしれませんが、今まで手を打ったことはありません。
「それで君たちはどうしたいのですか」
と問うことが私の仕事になっています。