学校には何をしたいのかわからないことがたくさんあります。
「それをすることで何をしたいのですか」
と質問したいことがたくさんあります。
多くの教師は何も疑問を持たずにやっているのかもしれませんが、私は「そもそも」
と考えることが多いせいか、とても気になることがあります。
以前、勤務していた学校で、空き缶集めをクラスごとに競争して、グラフ化し、一番多く集めたクラスを表彰するということをやっていました。
私は、担当の先生に
「こんな馬鹿げたことに私は参加しません。うちのクラスは最下位で結構です」
と言い放ったことがあります。
リサイクルを競うという発想が私には理解できませんでした。職員会議でも意見を述べたのですが、原案が通りました。会議の決定には従うという原理に反することは重々承知していました。しかし、我慢ができませんでした。
家から持っている空き缶を兄弟で取り合うという馬鹿馬鹿しい事態が起こりました。
会議の後、同僚から
「よく言ってくれた」
と言われました。皆さん、何だかすっきりしないと思っていたようです。
私があまりにも強く言ったせいかわかりませんが、クラス単位の掲示は、学年単位の慶治に変更され、次の年にはなくなりました。
思い始めると、いろいろと
「それをすることで何をしたいのですか」
と感じることはたくさんあります。
例えば、持久走大会です。
私は、
「走ることが楽しい」「走ることが好きだ」
という子供に育って欲しいと願っています。一部のアスリートを育てるよりも、生涯にわたって、自分のペースで運動する大人になって欲しいと思っています。アスリートを育てるのが無用だと考えている訳ではありません。
市民マラソンに参加する多くのランナーは、タイムの目標をそれぞれが持っているでしょうが、何よりも走ることが楽しい、走ることが好きだと思うのです。そして、少しでも健康でありたいと願っていると思います。
そういう大人に育てるには、どういう持久走をすればよいのでしょうか。そもそも持久走は必要なのでしょうか。
「苦しいけど、頑張る」
という発想では無理だと思うのです。
「楽しいから、頑張る」
としたい。
どうすれば、そうなるのか。そもそも、教師の発想では無理なのでしょうか。
市民マラソンに参加している多くの方が、体育の授業が好きではなかったと、聞いたこともあります。
学校の授業では無理なのでしょうか。
それなら、せめて嫌いにしないような工夫はできないでしょうか。
いろいろと考えるべきことはたくさんあります。