私は、学ぶ事が好きです。
教師になったときに、本気で研修に参加していました。
1年もすると、
「こんな研修を受けていてもだめだ」
と強く思うようになったようです。
大学時代の友人が、組合の活動していて、
「こんな研修に参加してみないか」
と誘ってくれました。
初めて、本気で面白いと思いました。
ヤマハの音楽の研修に参加して、講師の話に驚き、かつ楽しみました。
そのときの一言を今でも忘れません。
「いい講師と悪い講師の見分け方は、話がどれだけ具体的かで分かります。」
私は、この指摘をそのままそれ以降の研修で使っています。今でも使っています。
さすがに、抽象的な指摘で終わらせるような講師は減りました。
今の多くの講師が「法則化」の成果を使っているからではないかと思っています。
もはや「法則化」ですら、歴史の一部になろうとしています。
ただ、具体的な話が続くと
「それでこの先はどうなるの?」
と言いたくなってきます。
「学力向上をするため、これをやります」
と言われても、その
「学力向上の先に何があるのですか」
「学力向上の目的は、何ですか」
と言いたくなります。
浅はかな薄っぺらい話の連続に聞こえてしまいます。
私は、官制の研修にはほとんど参加せず、自費で楽しい研修を探して参加していました。何よりも自由なので、居心地がいい。参加している方が面白いで、退屈しない。
参加者が偉そうでないなど、私にはぴったりでした。
そんなことをしているうちに、自分が研修を開く側になりました。
開く側は、苦労も多いけど、やはり面白い。
『学び合い』に出会ったのは、官制の研修でした。ほとんど何も期待せずに、いつものように読みたい本を持って、参加していたことを思い出します。
『学び合い』も自由に、好き勝手に研修会を開いて、広がっていきました。
こういう研修会に参加してくる先生方は、楽しい人が多い。
教師の学びたいという思いを叶えるなら、好き勝手に研修会を開かせれば良いのです。
そうなったら、指導主事が呼ばれるのか、興味があります。
それ幸いに、指導主事を講師として呼ぶ方がいるでしょうね。
指導主事が講師として呼ばれている研修会に、私も講師として参加してみたい。
滅茶苦茶に面白い研修会になるように努力します。