自分で判断するということ

「先生に怒られないようにする」

と日記に書いてきたとします。

どう答えるでしょうか。

この子は、善悪の判断の基準が先生にあります。

これをやったら、先生が怒るかどうかが問題になっています。

先生が怒られないことは、やってもいいことになります。

自分で考える子供にはなっていません。

さて、クラスで

「怪しいなあ」

という子供たちの動きを見つけたらどうするか。

私は、静かに見ていることが多いのです。

しばらく見ていて、それでも子供たちがやめないようなら、それは

「先生が怒らないからやってもいい」

と子供たちが判断した事になります。

こんな子供たちにしてはいけません。

特に高学年以上では、自分で善悪の判断ができなければ困ります。

私は、静かに全体に向かって話をします。

「先生が怒るかどうかが問題ではないはずです。それが正しいことがどうか、自分で判断してください。それができるかどうか、とても大切です」

と言います。

静かに言っているようで、実はとても強いことを言っています。

例えば、仲の良い友達が誰かをいじめたとします。

その仲の良い友達に

「そういうことはやめなよ」

と言えるかどうかです。

具体的な場面では、そういうことになります。

「正しいと思うことをせよ」

と求めることは簡単ですが、いざ実行するとなると、様々な要因が重なり合って、簡単な話ではなくなります。

でも、クラスには、絶対に流されることのない子供たちがいます。

私は、そういう子供たちが何をしているのかを同時に見ています。

絶対的な位置にいます。

おそらく、そういう子供たちが反乱を始めたら、どうすることもできません。

絶対に流されない子供たちは、静かに力を養っているように見えます。

もうすぐ中学生が見え始めると、その力を存分に使い始めます。

絶対的な位置を強固に固めて、自分の道を進み始めます。

もうすぐそんな日が来るように思います。