以前、「学びの共同体」と『学び合い』の近さについて書いたことがあります。
そのときは、本当にそう感じたのです。
しかし、私の見方は間違っていたと感じています。
根本的な「観」が全く違うのではないか、と考えるような出来事がありました。
『学び合い』の実践者なら、『学び合い』を支える「観」についての共通認識があると思います。
「指導観」「子供観」「授業観」などです。
「教師は最善の教え手ではない」
「子供は有能だ」
「教師の仕事は、環境整備である」
など、ここには「教師の指導力」なんてものは入る余地はありません。
(でも、実際はここでの「教師の指導力」はとんでもないレベルを差すことがあります。)
授業を見て、「教師の指導力」が問われることはないと思います。
「いかに子供たちが学んでいたのか」
を一番に問うはずです。
教師の働きかけは最小でいい。
「では、始めてください」
だけで、進んで行くのが一番であるはずです。
今回の出来事は、「学びの共同体」への失望でもあります。
そこまで、教師の指導力を問うのであれば、佐藤学先生の指摘は無意味になります。
同じ“学び合い”とはいえ、『学び合い』の中にいて、つくづく良かったと思っています。
それにしても。
アクティブ・ラーニングが登場したときに、
「ついに」
と思い、それがだんだん骨抜きになっていく過程をみていて、教育という現場がいかに変化しにくい場所があるのかを痛感しています。
当時、指導者が口々に
「アクティブ・ラーニングと言っても、今までやってきたことを否定する必要はないのです」
と言っていたことを思い出します。
この言葉を聞いて、安堵した先生方は、全く変化する必要はないと解釈したのでしょう。
この言葉を発した指導者の方々には、悪気はなかったと思います。
しかしながら、この言葉を発した責任は相当重いと指摘しておきたいと思っています。
私の研究発表に
「教師が教えなくて、誰が教えるのですか」
と資料も読まずに発言した指導者も同様です。
この発言など
「教育をデータで語らず、エピソードで語る典型である」
と私は思っています。
もうそろそろ、エピソードで語るのは止めましょう。
さらに。
私は、学術の成果をもっと現場に生かした方がいいと強く思っています。
来年度は、これを強く押すつもりです。