校内研修で、「学びの共同体」の指導者の指導を受けました。
「高い課題を与え、みんなで考えさせる」
という話になりました。
「課題が低すぎると、みんなが考えない」
という展開もありました。
具体的な話が多かったので、私はむしろ「学びの共同体」の理論的な話を拝聴したいと思っていました。
「高い課題って、どのように考えればいいか」
という話になりました。
「高い課題」を考えることは、多くの教師にはできないと私は思っています。
私は、いくらでも考えられます。
自信を持って言えます。
なぜか。
教師が課題を考えるときに、子供たちができることを前提にしています。
「この課題だと、できない子がいるなあ」
と感じた課題には、自制が働きます。
「みんなができる課題」という前提を置いて、「高い課題」を考えています。
結果として、「高い課題」を考えることはできません。
「これは無理だなあ」という課題を与えて、教室の空気が止まってしまった場合、どうやって支援していくのかを考えてしまいます。支援の方法が思いつかない。支援にやたらと手間と時間がかかるなどの理由から、これまた「高い課題」を考えることができなくなります。
つまり、せっかく考えた「高い課題」なのに、自分が指導する場面を思い浮かべて、最後まで指導すると考えてしまうのです。
私は、そんなことは微塵も考えません。
「高い課題」を出すと、教室が止まります。
何をして良いのか、わからず、子供たちが迷います。
この時間がとにかくつらい。
故佐藤準一先生は、「胃が痛くなる時間」と表現していました。
私は、教室を回って、子供たちから何かが始まるのをじっと待っています。
自分に指導できないような課題なら、余計に待つしかない。
「子供たちができないときに、どのように支援するか」
なんてことは全く考えません。
『学び合い』なので、子供たちの力を信じています。
予想通り、子供たちは混乱して、止まっている。
「さて、何が始まるのか」
と待つ。
これができれば、いくらでも「高い課題」を考えることはできます。
「挑戦的な課題」といった方がいいのかもしれません。
その課題をみんなで達成することに価値があると確信できるならば、子供たちに挑戦すべきであると私は思っています。
しかも、私の場合、1時間という単位ではなく、1単元の課題を出します。
長いときは10時間ほどの取り組みになっていました。
その最初の3時間ほど、本当に胃の痛くなるような時間を何回も過ごしてきました。
この状況は、子供たちと教師の真剣勝負でもあります。
「さあ、おまえ達、どうする?」
という投げかけに、
「やってやろうじゃないか」
と子供たちがどう対応するのかというとても楽しい場面です。
私は、とんでもない「高い課題」を考えるとき、その発想を押さえる自制が全くありません。
だから、いくらでも「高い課題」を考える事ができます。
最近は、「高い課題」でありながら「楽しい課題」を考えたいと思っています。
「高くて楽しい課題」です。
もともと「おもしろ教育」を志していたところからの始まりなので、次は「高くて楽しい課題」を考えたいと思っています。