授業はコミュニケーションである

最近気づいたことですが、

「授業はコミュニケーションである」

という当たり前のことです。

 

 

数年前から、研究授業がつまらなくて仕方ありませんでした。

特に、指導案通りに進む授業が退屈でした。

授業後の研究会で司会をすることになっている授業ですら、退屈で眠くなってしまいました。

指導案通りに進む、評価の高い授業が退屈だなんて、私はどうかしていると思っていました。教師としての賞味期限が来ているのか、退職すべきであるのかとも思っていました。

当たり前ですが、授業は生ものです。生きている子供たちと教師がしゃべるのですから、話がどこに行くのか正直分からないものです。

まして、担任であれば、「どこまでの脱線なら大丈夫か」なんて、子供たちも考えています。この担任脱線してしゃべり始めるとどこまで行くか分からないと、子供たちが思い始めると、いろいろな手を使って、仕掛けてきます。

子供たちの仕掛けに、どこまで乗るのか、乗らないのか、さらにどうやって切り返すのか、など、私は楽しくなってしまうのです。

「あ、だから指導案通りの授業はつまらないのか」

と気づいたのです。どこに行くのか、何に行くのか、分からない展開の方がずっと面白い。どうやって、この授業とこの話を関連付けるのか、これも面白い。

「先生、質問があります。どうして地球には水があるのですか」

と唐突な質問が飛んできます。

理科の時間に、この質問に少し応えます。

すると、また次の質問がやってきます。

そんなことをしていると、子供たちが次々と質問をしてきます。

それをどのように生かすのか、これも面白い。

子供たちと、そういうやりとりをしながら、授業を進められるので、私は自分の授業には全く退屈していません。

研究授業でも、思わぬ子供の発言からあらぬ方へ話が進むと、私はわくわくするのです。そのときに、その教師の本当の力、授業のコミュニケーションが試されていると思うのです。

 

「学ぶ」ということ

3ヶ月も更新をしていませんでした。

自分でも驚きました。

 

内田樹氏のブログを読んで久しぶりに書く気になりました。

いま私たちが学ぶべきこと - 内田樹の研究室 (tatsuru.com)

 

そこには、

【人間が知的に成長するというのは「別人になること」だ】

と書かれています。知識の不足を補充する事ではなく、別の自分に変わっていくのが「学び」だと指摘しています。

そもそもの「学び」が何であるか、根源的な問いです。

私は、こういうそもそもの問いが好きです。

とりあえず、最初に戻って、そもそもそれはどういうことなのかから考え直しましょうと考えます。面倒くさいといえば、面倒くさいです。

 

私は、振り返れば、ほんの一時期、「教育技術の法則化運動」にどっぷりとはまっていたことがあります。今もその時に学んだ技術を使っているので、それが無駄だったとは思いません。

「子供たちを指導しないで、何の教師か」

「できるようにするのが教師の仕事」

と思っていました。

それが『学び合い』と出会ってから、(当時は、まだ『学び合い』という表記すらありませんでした)

「教師は最善の教え手ではない」

「子供たちに任せた方がいい」

と言うようになりました。私の近くにいた友人は

「狂ったと思った」

と言っていました。それで、袂を分かった友人もいます。

自分でも、なぜ「法則化運動から離れたのか」がよく分かりません。

でも、自分が全く変わってしまった。

振り返ると、その時期に、自分の中で一生に一度だけというくらいの強烈な学びが起こっていたのだと思います。

内田樹氏の指摘で、自分を振り返りました。

 

 

1学期がもうすぐ終わります。

教師生活の最後の研究授業も終わりました。

62歳になり、体のあちこちに不具合も見つかりはじめました。

教師としての生活をいつ終わりにしようかとも思い始めました。

いろいろと考えることがありました。

最後の最後まで、学級担任として過ごせたことをとても光栄であり、幸運であると思っています。

 

滑り出し

新学期が始まって、2週間が経ちました。

まあまあ、順調な滑り出しです。

本格的な『学び合い』を始めたわけではありませんが、のんびりと子供たちの様子を見ています。

 

 

校内ではいろいろとあり、いろいろと考えるところがあります。

一番は

「学び合いは“考え方だ”というのは、一番優れた卓見だ」

と再認識したところにあります。

勤務地は「学びの共同体」による学び合いを進めています。私は、それでいいと思っています。課題解決型の授業から、学び合いに移行して5年以上経つと思いますが、先生方の発想が展開しないことに驚きます。

教師としての考え方を変えられないのです。

「どう指導するか」

という発想を変えられません。ここが一番の問題だと思います。

教師の姿勢は、何気ない言葉遣いや態度に表れます。どのように進めようとしているのか、言葉遣いを聞いていれば分かります。

授業の形でもなく、指導の形態でもなく、教師の考え方である。

これが一番の難しいし、わかりにくい。でも、一番大切なところであると今更ながらに感じています。

 

 

昨日は、授業参観でした。

私は、

「後ろで見ているだけの授業はしない」

と子供たちに話をして、授業中参観者している保護者と子供たちが自由に話してもいい授業をしました。私は最初の数分と最後の3分くらいしゃべっただけでした。

何が起きても、子供たちが動かない授業はつまらない。

子供たちが自由に楽しく動いていれば、それでいいのです。

時には、大真面目な一斉授業もしますが、もっと大切なことがあるような気がします。

私の場合、この境地に達したのは、定年間近でした。もっと早く出来るようになれば、もっと楽に過ごせたのに、と思っています。

もう失うものは何もないのは、実に楽しいですね。

 

始まりました

再任用2年目。

校内の事情で6年生の担任になりました。

仕事なので、淡々とこなすだけです。

6年生の担任について

「6年生は学校の顔ですから」

とか言う方がいらっしゃいますが、子供たちにとってはいい迷惑です。

私は、

「6年の担任と言っても、小学校生活の6分1ですから」

と思っています。

勝手に6年の担任のハードルをあげておいて、自分たちで困っている訳です。

私にはよく分からない。

 

一週間が過ぎて、いよいよクラス作りが始まったという感じです。

とても素直で穏やかな集団です。

さて、どのように展開していくのでしょうか。

「仕事ですから」

俳優の柄本明は、ある番組で、志村けんとのへんな芸者の役について聞かれたとき

「仕事ですから」

と応えていました。インタビューアーはどこかで「江本さんほどの俳優がどうしてそんな役までやるんですか」と思い込んでいたのでしょう。その質問に涼しく

「仕事ですから」

と返していました。

私は、この「仕事ですから」という構え方が好きです。特に熱い情熱を持つわけでもなく、仕事として責任を果たしている、自分の好みでやっている訳ではない、という感じが好きです。

なんか涼しい感じがします。

思い返してみると、私はあらゆる仕事を「仕事ですから」と対応してきたように思います。自分で「仕事ではない」と判断したものには参加しない。

かつて、ある主任会の飲み会に参加したことがあります。私は、その主任ではありませんでしたが、校長から「参加してみろ」と言われて、しぶしぶ参加したのです。

嫌な予感がしました。予想通りでした。参加した主任方は、同席した指導主事にどうやってお酒をつぐかを競うような態度でした。

あきれて、自分の料理を食べて、そうっと退席しました。

これは、自分の「仕事」とは思えませんでした。

私は「仕事」の範囲で仕事をします。勤務時間を大幅に超えるような仕事は、自分の仕事ではありません。

その範囲でできることを淡々とこなすだけです。

それを指導出来るのか

久しぶりの更新です。

 

教育委員会から、教師の経験年数と目標とすべき仕事内容についての訂正がありました。仮に、Aとします。

かなり以前からあるものらしいのですが、今回改定になったと校長より話がありました。

さらっと読みました。

なかなかに面白い。

西川先生の言う教師の職能発達の考え方にかなり似ています。

教材研究から指導法の研究に移り、最後は学習論に至るという道筋を示しているように感じました。

最初の感想は

「なかなか、いいですよ」

でした。

次は、

「さて、これを指導出来る指導者が居るのだろうか」

でした。

例えばです。

1年に1回、「支援担当訪問」があり、授業を見て、指導を受けます。

その指導は、Aに沿ったものになるはずです。経験年数が5年未満の教師と20年以上の教師とでは、指導内容が全く違う内容であるはずです。果たすべき仕事内容が違うのですから、指導内容も違うはずです。

そろそろ、教材研究から指導法の研究に移るべき教師に

「そろそろ、指導法の研究に移られることをお勧めします」

という指導ができるのでしょうか。

経験年数が20年以上の教師に

「この指導法ではだめです」

という言い方はできるのでしょうか。

そもそも、現在の指導者で経験年数が20年以上の教師は少なくなっています。

自分が、指導法の研究をすべき経験年数でありながら

「さすが、20年以上の経験があり、学習論に基づいた授業ですね」

という見方ができるのでしょうか。

私は、このAを読んでいて、楽しくなってしまいました。

次の支援担当訪問で、どんなご支援を受けるのか、今から楽しみになっています。

こんなことを考える教師も少ないと思うので、どうやって20年以上の経験をお見せしようかと、じっくりと考える事にします。

 

贈与から

結構早いペースで読書。

子供たちに何を教えるべきか、将来の幸せのために何を知らせるべきかを考えています。正直、「学力向上」なんて事にはあまり興味がありません。(学力向上しないという訳ではありません。通常の業務は当然学力向上を目指しています。)

齋藤幸平氏が言う「コミュニズム」。内田樹氏が言う「贈与」かなり近いなあと感じています。どちらも、行き過ぎた「資本主義」から距離を置こうとしている立場です。

私もこの考え方に賛成します。

「本当に欲しいものは贈与することでしか手に入らない」

すごい指摘です。

とりあえず、自分に出来ることをやってみようと思います。自分が読んで面白かった本は、すぐに誰かに貸してしまう。自分は読んだのだから、もし戻ってこなくてもいい。とりあえずの贈与です。又貸しも気にしない。

職場で、気がついたことがあれば、まずは自分がやってみる。

子供たちにも、

「まずは自分がやってみて、贈与する」

なんて言っています。

齋藤氏の指摘を読んでいると、まだ何とか人類は生きていけるかもしれないと思えます。希望を持とう。

 

いくつになっても、興味は尽きません。