学校が開店休業常態です。
学校ですべき仕事は学校で終わらせられます。
本来そうあるべきですが。
定時に退勤して、ゆったりと生活しています。
本を読む時間がかなり増えました。
教え子がいる本屋で
「お客さんが多くなった?」
と聞いたら
「だいぶ落ち着きましたけど、多いですね。」
と言われました。
読みかけていた本を読んで、後半の内容にショックを受けました。
続けて、今月号の「文藝春秋」の特集を読んで、やはり同じ内容を見つけました。
「子供たちが社会科でつまずいているのは、言葉がわからないから」
という西川研の研究成果は、社会科に限らなかったという当たり前の指摘でした。
「読解力」がポイントです。
この読解力が足りないとの指摘が続きます。
読解力を定義することは、ひとまず置きます。
これまでの一斉指導の中で、どれほどの読解力をつけようとしてきたのでしょうか。
逆に、現状の読解力不足は、これまでの授業の“成果”とも考えられます。
ここから先は分かれ道です。
今までの指導法の改善で進もうとするのか。
それとも、今までの指導の“成果”と考えて、全く違う授業を展開するのか。
私は、社会科の言葉の問題から考えても、学びを個別化していく『学び合い』しかないと、当たり前に思っています。
読解力も、おそらく状況によって変化します。
テストで文章を読んでいるときと、恋人から送られてきたメールの文章を読んでいるときとでは、違う読解力が働いているように思います。
物語と、新しい携帯の使い方を読んでいるときとではどうでしょうか。
これから、読解力の向上がポイントになるような気がします。
国語だけでなく、算数も社会も道徳も、読解力をどう考えるのかが、研究の中心になっていくように感じています。
私は、「読解力が必要な場面をどのように作っていくのか」ということに興味があります。状況設定をどうするのかという研究です。
「今日、いつもの場所で待っています」
という文が、どのような状況で使われているのかを前提にしないと解読できません。
恋人同士なのか、夫婦の会話か、秘密の取引なのか。「今日」は、何時なのか。
考えればきりがありません。
これを『学び合い』で解いていく。
子供たちが、わいわいガヤガヤと解く。
楽しくなりそうな気がしています。