「学びの共同体」への質問

勤務地は、「学び共同体」の指導を受けて、学び合いの研究を地域を挙げて進めています。

私は一斉指導の研究よりずっとましだと思っています。

10年ほど前に仕えていた校長は、当時から学び合いの授業に関心を持っていらっしゃいました。『学び合い』を進めていた私に

「もう一斉授業には先がない」

と話してくれました。その校長は現在ある町の教育長をしています。

来週、研究授業があり、指導者に「学び共同体」の指導者を招聘しています。

「質問したいことがあったら、出して欲しい」

と言われて、ずっと聞きたいと思っていたことを質問として出すことにしました。

「違う課題でも学び合いは成立するのか」

「異学年でも、学び合いは成立するのか」

という問いです。

『学び合い』の同志なら、この質問は簡単です。

すでに、異学年の『学び合い』の実践は進み、有効性は立証されていると思います。

「学び共同体」が、この問いにどのように答えるのか、大変に興味があります。

 

今までも、私の問いはいろいろな場面で取り上げてもらえずに来ました。

そういうときには、

「痛いところを突いたな」

と自己満足して終わらせてきました。

今回はどうでしょうか。

 

特別支援学級を担任していて、この『学び合い』の考え方がよく分かります。

課題が違っていても、『学び合い』は成立するし、異学年の子供たち同士でも『学び合い』は起こります。それほど、子供たちは影響し合っているのです。

それを看取る力があるかどうかが問われているのだとも思っています。

特別支援学級であれば、同じ学年の同じ教科であっても、一人一人の課題は違います。

一斉指導が出来ないから、特別支援学級で学んでいるのです。

一人一人の課題があり、一人一人の学習を進めていくのが特別支援学級です。

ここにいると、逆に普通学級の、一斉授業が実は不思議な授業なのではないかと思ってしまいます。本来、全員が違う課題が普通ではないかと思ってしまいます。

もし、全員が違う課題で学ぶことが当たり前になったら、特別支援学級はなくなるでしょう。全員が違うのですから、そこにいても出来ないことはありませんし、一人一人に対応するのですから、現在の特別支援学級が普通学級を飲み込んでいく形になるはずです。

発想が逆転します。普通学級に、障害のある子供たちを受けていれていくのではなく、特別支援学級の考え方が普通学級に広がっていくわけです。

一人一人が違う課題に取り組んでいる学級でも、『学び合い』は成り立ちます。たとえ、授業中に一言も話していなくても、『学び合い』はできます。

原点に返って、

「『学び合い』は考え方である」

「『学び合い』は授業の形式ではない」

を思い出します。

『学び合い』を実践した同志が、特別支援学級の担任を経験することを私は望んでいます。特別支援学級の担任になると、『学び合い』がいかに優れた考え方であるかを実感することができます。

私は、縁あって特別支援学級の担任として、教師の仕事の終末を迎えます。

もう普通学級の担任に戻ることは考えられません。

ここで、最後しっかりと『学び合い』を仕上げたいと思っています。

 

危ない橋

コロナが大きな流行しているような気がします。

3月4月の緊急事態から始まって、今回の流行は危ない気がするのです。

今まで、自分でできる感染予防をしてきました。今もしています。

でも、それだけでは足りない気がするのです。

今週末は外出を控えて、静かにしていようと思っています。

先が見えない状態は本当につらい。

勤務先でも、寒いことを我慢して、換気をしています。

子供たちが集まっているところには近寄らないようにしています。

私の机の上には、パーティションを置いています。

机を配置して、子供たちか近寄れないようにしています。

 

 

あと、どのくらいこの生活がつづくのでしょうか。

本当にこまったものです。

 

嫌な予感

報道を読むと、コロナの第3波を感じます。

なんだか、嫌な予感がするのです。

私の個人的な感じなので、メモです。

もう一斉休校のような強い制約が出来ないとすれば、自分で考えて予防するしかありません。

大急ぎで作ったワクチンを我先に求める来もさらさらありません。

ひたすら予防です。

 

 

例えば、私が住む埼玉県の感染者が「過去最悪」の数字を出していても、私が住む農村部にはほとんど感染者がいません。

埼玉県で感染者が増えているところは、県南の人口密集地が中心です。

テレビで渋谷のスクランブル交差点が出る度に

「近くにあそこまで人が密集するような場所はないなあ」

と思います。

夜の町にももう1年近く出かけていません。

学校でも、自分の教室にいて、3密を避けています。

感染が広がる理由の根本的な理由は、人口の密集だと感じています。

このことを正面から論じている報道を見たことがありません。

今東京から転居している人たちが増加しているという報道がありました。

「コロナが収まれば、また戻ってくる」

という見方もあるようですが、私はもう戻ることはないのではないかと思っています。

都市生活の弱さが際立っています。

外出禁止と行っても、私の生活はほとんど変わりませんでした。

庭にテーブルを出して、ご飯を食べたり、近所を散歩したりと全く不自由ありませんでした。

移動も車なので、家族以外との接触はありません。

買い物も混むところがありません。

感染のリスクの高いところから、逃げ出そうというのは、当たり前の動きだと思います。

 

報道で、

「感染者、最悪の数字」

と聞く度に、嫌な気分になります。

この予感が外れることを祈りたい。

静かに過ごします。

 

 

趣味の話

私は自分で退屈しない人間だと思っています。

終末は自宅でピザ生地を練り、簡易な釜で焼いて自家製のピザを食べました。

「買うのとどっちがおいしいですか」

と聞かれることがありますが、自家製の方が断然おいしいと思っています。

だいたい、採算が合うなんて事は全く考えません。

好きなだけ好きな物を乗せて作ります。

チーズを多めに乗せるだけでかなりリッチな気分になります。

この簡易な釜がまず重宝です。

結構焼けます。

 

 

もう一つ。

日曜日に出かけている趣味の時間があります。

こちらは、コロナの影響でしばらく活動がありませんでした。

今は、感染予防策をとって、用心深く活動しています。

久しぶりに、興奮しました。

これもいいものです。

 

 

私に一つ才能があるとすれば、どんな状況で楽しいことを見つけて、楽しめるという事だと思っています。

仕事の上で、いろいろなことがあっても、何とかここまでやってきました。

今も毎日のようにいろいろなことがあります。

不愉快な事もありますし、気乗りのしない仕事をいやいやすることもあります。

仕事なので、仕方ありません。

その中でも、なんだか楽しくなってしまうときがあります。

大きな悩みや挫折にならないので、長く仕事をしてこられたのだと思います。

 

 

自分に趣味とも言える物があるのは、とても楽しいことです。

これ以上、手を出すと、破産するか過労死するかのどちらかです。

趣味で過労死はないのかもしれません。

寝る時間を削ってでも、やってみたいことがまだまだあります。

 

少人数指導

校内研修での話。

県の学力テストの結果の分析をしました。

分析と言っても、データから何ができているか、できていないのかを考えてその対策を考えるという内容です。

始まる前のちょっとした雑談のなかで、私が

「だいたい少人数指導で学力が上がるということはないんだよ」

と言ったら、若い同僚が

「どういうことですか。人数を減らして指導すれば学力が上がるんじゃないですか」

と反応してくれました。

いいですね。

久しぶりに、嬉しい反応でした。

「いや、学術的に少人数指導で学力が向上したというデータはないんだよ」

「少人数指導で学力が向上するというのは、思い込みなんだよ」

といいましたが、納得していない様子でした。

「だいたい少人数指導の僻地校で学力が向上したという話はないよね」

と言ったところで時間切れとなりました。最後に

「じゃあ、学力向上はどうすればいいんですか」

と問われたので

「ただ、人数を減らせば学力が伸びるというものではないんだよ。そんなに簡単な話ではない」

と言いました。

若い教師が、

「人数を減らせば学力が伸びる」

と信じているようです。

 

 

例えば、私のクラスの4人は完全に自分のペースで学習を進めています。

一斉指導はありません。

この方法が一番、この子供たちに合っているのです。

これをクラスでやればいいと私は思っています。

一人一人が違う進度で学習する。

これしかありません。

クラスの中に、算数が得意な子供と不得意な子供がいる。体育の好きな子供も苦手な子供がいる、という当たり前のクラスが一番いいのです。

できる子供だけ集めても、苦手な子供だけ集めても、やはり伸びないのです。

 

 

私は、この若き教師にどの本を薦めようか考えています。

いきなり『学び合い』では、刺激が強すぎて受け付けないでしょう。

徹底的に一斉指導に特化した本も面白いと思っています。

私に

「なぜ」

と問うた姿勢に報いなければなりません。

「その姿勢いいですよ。もっとかかってきてください」

と私は静かにエールを送っているのです。

 

指導案を書く

今年度も支援担当訪問があります。

管理職から

「指導案のひな形を見て、作ってください。A4 1枚程度に納めてください。」

との指示がありました。

どのように書いても、A4で1枚です。

A4で1枚と言われたら、書く内容を削って、その中に納めればいいのです。

同僚は

「A4で1枚なんて、無理だよね」

と言っていましたが、私が

「無理に書く必要はないということ。A4で1枚なら、それでいいんだよ」

と言うと、

「ああ、そう」

と言っていました。

私は、きっちりA4で1枚に納めて、提出してしまいました。

教師の仕事を削るという方向があれば、指導案なんぞ、簡略すればいいのです。

簡略するには、簡略するなりの努力も必要なのです。

 

 

私は、今回の指導案を作るのに、おそらく30分程度でした。

ほとんどが頭の中でできあがってから、取りかかるので、実際の時間は短くなります。

以前にも

「その程度の指導案なら、30分でできる」

と言ったら

「やって見せてください」

と言われたので、実際にやって見せたことがあります。

真っ白な画面を見つめている時間ほど、無駄な時間はありません。

パソコンに向かった段階で、頭の中にはほとんどの指導案ができているというのが、私の理想です。

頭の中で考えているので、どこでもいつでもできます。

車を運転しながら、思わぬ発想に出会うこともあります。

「自分と一緒に働く、小人を大切に育てる」

という文章を読んだことがありますが、まさに私の頭の中で、常時考えている小人がいるような感じです。

 

この土日も、指導案づくりで学校にいる同僚がいるのでしょう。

時間をかけずに、「さらっと」と作ってしまえばいいのです。

管理職から訂正や指導を受けたら、

「はい、わかりました」

と訂正して、そのまま授業をすればいいのです。

何かしらの事情で、指導案と全く違うことをやったとしても、たいしたことはありません。

 

私は、屋外での理科の研究授業を予定したときに、雨の時用の全く別の指導案をもう一つ用意したことがあります。研究指定校の発表会だったので、本格的な指導案を2単元用意したことになります。

口の悪い同僚たちが、その指導案を見比べて

「こっちの授業の方が面白そうだから、雨が降らないかなあ」

なんて言っていました。

当日は快晴のいい天気でした。指導案は、全く使われませんでした。

 

 

こんな経験があるからこそ、指導案はできるだけ薄い方がいいと思っています。

大きな枠組みだけの指導案で、あとは、授業が始まったら、子供たちとのやりとり、子供たち同士のやりとりで、授業で度面に進むのか、わかりません。

こういうふうに「わからない」と言うと、無責任と言われるのでしょうか。

 

コロナ以前には戻れない

新型コロナウィルスの流行による休校が3月。

10月の終わりですから、およそ8ヶ月が過ぎました。

当初に比べると、わかってきたことも沢山あるのでしょうか。

わからないことがわかったということもあるでしょう。

 

 

今日は運動会の代わりの行事がありました。

少し油断すると、すぐに元に戻そうとする力が働きます。

今までの運動会には、もう戻ることがないと考えて、新しいものを作り出していく必要があると思っています。

 

私が子供の頃、農村部だった事もあり、運動会は地域のお祭りという側面を持っていたと思います。校門の前には、屋台が数軒並んでいました。校庭にとてもいい匂いが漂っていたように思います。

それが、学校行事としての役割を大きく背負わされて、平日の運動会に変わっていきました。それは、また日曜日の運動会に戻ります。日曜日に戻っても、お弁当を親子で食べることは復活しませんでしたし、屋台も戻りませんでした。

学校側がどのように保護者に説明しようとも、そのお祭りの側面は、消えることはありません。学校側が規律ある運動会を開催しようとしても、無理なのです。

行動様式は、しみこんでいます。

 

新しい行動様式に合う運動会はどのようなものなのか、まだまだ模索が必要だと思いますが、もう二度とコロナ以前のような運動会はできないのか、どうでしょうか。

私は、今までの運動会をご破算にして、新しい運動会を作っていけたらと思っています。