指導論に入らない

校内研修は学び合いです。

勤務校を含めて、町の方針で、「学びの共同体」の指導を受けています。

指導者が数名いらっしゃいます。

微妙に言うことが違うので、それも楽しんでいます。

『学び合い』の指導なら、誰が来ても同じことを言うのでしょうか。

聞いている方に聞いてみたいところです。

 

 

その中で

「授業後の研究会では、指導論に立ち入らない」

という指導がありました。

「子供の学びをみとる」

ということで、シートを渡されて、書き込みました。

私は、指導論も好きですが、最後は結局子供たちが何を学んだかが問われると思っています。

グループに分かれて、子供たちの学びを姿の話をしていました。

私は、西川研で2年間子供たちの学びの姿を見ていたので、子供たちの学びを見ることが多少はできると思っています。

 

 

最後に指導者がご指導をされました。

指導者は、学びの共同体の方です。

この方のお話は、指導論に終始しました。

がっかりしました。

「ここで、教師が…」

という話が続きました。

この指導者が、子供たちの学びをどのようにみとったのかをお聞きしたかった。

残念です。

 

 

「指導論に入らない」は、とても難しい了解です。

指導論、教材論、学習者論などを分類する思考になれていません。

そもそも、そんな分類があることすら知らない方が多いからです。

それとても、明確に分けることができるのかとなると、これも怪しい。

ある受け答えを、それぞれの立場から眺めるとどうなるか、という設定も可能でしょう。

授業という具体的な場面で、教師と子供、子供と子供の具体的なやりとりとをどのような観点から切り込むことができるのか、を問うと、たくさんの可能性が考えられると思います。

一見、効果的な指導も、では一週間後に、1年後にどうなっているのかなど全く見当もつきません。

多くのやりとりは、一瞬の出来事です。

教師の仕事の多くは、その一瞬を捉える瞬発力にあるのかもしれません。

録音や録画で再生して確認するとしても、その一瞬を捉えるには、膨大な時間と手間がかかります。

とても楽しい一瞬です。

 

『学び合い』2

『学び合い』の授業2時間目。

子供たちは、静かに学習している。

わずかに話し合いをしている子供たちがいる。

タブレットを眺めて、

「ないなあ」

とつぶやいている子供がいる。

こういう授業はいい。

みんなが違うことをやっている。

違うものをみている。

ノートに書いている子供。

教科書を読んでいる子供。

隣のノートをのぞき込んでいる子供。

考え事をしているらしき子供。

いいですね。

わくわくします。

 

 

私はぼんやりと子供たちのそんな様子をただ眺めていました。

 

 

自分の教室に戻り、授業をします。

4人が同じ事をしていることはあまりありません。

いつも違うことをやっています。

私がずっとついている子供もいれば、必要なときだけ近づく子供もいます。

考えてみれば、みんなが違うことをやっていても平気なのは、普通学級で『学び合い』をやっていれば日常的な風景だからなのかもしれません。

一人一人の課題に対応すれば、そうなるしかありません。

個別最適化の授業です。

 

 

『学び合い』始める

校内で「学び合い」ができるという方針が出ました。

早速、本格的な『学び合い』を始めました。

今日は、急な授業変更があり、教科書を忘れた子供が数名いました。

チャンスです。

目標を設定し、教科書を忘れた子供たちにはタブレットを貸し出して、『学び合い』始めました。

教科書を持っていても、タブレットを使いたい子供もいます。

もちろん、オーケーです。

一応、グループにしました。まずはここからです。

 

 

そんな中、あるグループはタブレットには一斉関係せず、ひたすら教科書を読んでノートに書き留めるという学習を静かにしていました。

「子供たちが使える一番の情報源は教科書である」

と思っている私は、その様子を見ていて

「このグループできる」

と思ってしまいました。

タブレットをいじりながら

「何をやるの」

なんて聞いている子供たちとは違います。

動画を見て、

「へー」

なんて言っているグループはこれからどうなるのでしょうか。

コロナで進めなかった『学び合い』を始めました。

今回は、6年社会3時間1単元丸投げの『学び合い』です。

 

校長というお仕事

ここ何回か、書き出しては更新できませんでした。

妻から

「あなたは校長になれなかったのだから、校長先生についてとやかく言う資格はないのよ」

と言われています。自分から校長になろうとしたことはありませんから、「なれなかった」というより「なろうともしなかった」という方が正確であるようにも思います。

実際になろうとしても、なれなかったと思っていますので、妻の言う通りかもしれません。

 

 

最近、なぜだか「校長の仕事」について考えることがあります。

学級担任の延長ではない、どこかで断絶している何かがあるように思えるのです。

学級担任としての力量をどこかで捨てるのか、また校長としての何かを獲得するのか、その両方か、また違うのかわかりません。

ただ、学級担任として求められる職能と校長として求められる職能は、地続きではないような気がするのです。

私が今まで仕えてきた校長先生方の中でも、校長としての力量が際立って高いと感じられる方がいらっしゃいました。逆に、学級担任としての力量の延長で校長先生の仕事をこなされている方もいらっしゃいました。

それが何なのか、もっと具体的に考えたいと思っています。

法律や県のから出される文書をよく読んでいて、

「こういうふうに書かれているから、ここまでやってあれば問題はありません」

「文書はここまでなので、あとは校長の裁量です。」

などと言われると、納得します。

それが、職員の負担にならないような配慮を感じるのです。

文書ではなく、指導主事の一言を真に受けて、やたらと負担が増えるようなことを平気で指示する校長先生はご勘弁願いたい。

校長の仕事として、できることが意外に多いのだと思うことが多くなりました。

 

私には、無理なお仕事です。

 

高い課題

校内研修で、「学びの共同体」の指導者の指導を受けました。

「高い課題を与え、みんなで考えさせる」

という話になりました。

「課題が低すぎると、みんなが考えない」

という展開もありました。

具体的な話が多かったので、私はむしろ「学びの共同体」の理論的な話を拝聴したいと思っていました。

「高い課題って、どのように考えればいいか」

という話になりました。

「高い課題」を考えることは、多くの教師にはできないと私は思っています。

私は、いくらでも考えられます。

自信を持って言えます。

なぜか。

教師が課題を考えるときに、子供たちができることを前提にしています。

「この課題だと、できない子がいるなあ」

と感じた課題には、自制が働きます。

「みんなができる課題」という前提を置いて、「高い課題」を考えています。

結果として、「高い課題」を考えることはできません。

「これは無理だなあ」という課題を与えて、教室の空気が止まってしまった場合、どうやって支援していくのかを考えてしまいます。支援の方法が思いつかない。支援にやたらと手間と時間がかかるなどの理由から、これまた「高い課題」を考えることができなくなります。

つまり、せっかく考えた「高い課題」なのに、自分が指導する場面を思い浮かべて、最後まで指導すると考えてしまうのです。

 

私は、そんなことは微塵も考えません。

「高い課題」を出すと、教室が止まります。

何をして良いのか、わからず、子供たちが迷います。

この時間がとにかくつらい。

佐藤準一先生は、「胃が痛くなる時間」と表現していました。

私は、教室を回って、子供たちから何かが始まるのをじっと待っています。

自分に指導できないような課題なら、余計に待つしかない。

「子供たちができないときに、どのように支援するか」

なんてことは全く考えません。

『学び合い』なので、子供たちの力を信じています。

予想通り、子供たちは混乱して、止まっている。

「さて、何が始まるのか」

と待つ。

これができれば、いくらでも「高い課題」を考えることはできます。

「挑戦的な課題」といった方がいいのかもしれません。

その課題をみんなで達成することに価値があると確信できるならば、子供たちに挑戦すべきであると私は思っています。

しかも、私の場合、1時間という単位ではなく、1単元の課題を出します。

長いときは10時間ほどの取り組みになっていました。

その最初の3時間ほど、本当に胃の痛くなるような時間を何回も過ごしてきました。

この状況は、子供たちと教師の真剣勝負でもあります。

「さあ、おまえ達、どうする?」

という投げかけに、

「やってやろうじゃないか」

と子供たちがどう対応するのかというとても楽しい場面です。

私は、とんでもない「高い課題」を考えるとき、その発想を押さえる自制が全くありません。

だから、いくらでも「高い課題」を考える事ができます。

 

最近は、「高い課題」でありながら「楽しい課題」を考えたいと思っています。

「高くて楽しい課題」です。

もともと「おもしろ教育」を志していたところからの始まりなので、次は「高くて楽しい課題」を考えたいと思っています。

 

変わっていない

ある方から、

「授業が全く変わっていない」

というお話を伺いました。

データで裏付けられた数値ではありません。授業を参観しての感じ方ですが、私はかなり当たっていると思っています。

私も、授業を参観して、多くの一斉授業を見ています。

この傾向は、ますますひどくなっているとも感じています。

コロナの休校で時数がギリギリになっているという教師の都合もあるでしょう。

「子供たちに任せて、終わらなくなったらどうしよう」

と考えて、すべて自分で準備して進めているという事情もあるでしょう。

子供たちが自由に話し合う環境が整っていないという事情もあるでしょう。

一斉授業に見えても、『学び合い』が成立しているという授業もあります。

『学び合い』は考え方ですから。授業の形ではありません。

 

 

数年前、西川先生のご講演で「アクティブ・ラーニング」の話を伺ったときの衝撃を忘れていません。

これで、大きな変化が生まれると感じ、自信をもって『学び合い』をやってきました。

その後「対話的主体的で深い学び」と言い換えられ、すっかり骨抜きになり、今や「アクティブ・ラーニング」は忘れ去られています。

でも、私は、とても大切な提案だったと思っています。

 

 

私が最近心配なのは、一斉授業に慣れてしまった子供たちの将来です。

与えられた課題なら、正確に答えを出す習慣を身につけています。

そういう子供たちの力を変えようとして、始まったはずなのに結局何も変わっていかなかった。

子供たちの将来が気がかりです。

 

 

正統的周辺参加

今更言うまでもないことだと思いますが、

 

ジーン・レイヴ

エティエンヌ・ウィンガー著

「状況に埋め込まれた学習」

正統的周辺参加

産業図書

 

 

が指摘している「正統的周辺参加」もとても大切な考え方だと思っています。

すべてを教師が準備した授業より、準備から参加した方がいいという考え方です。

好き嫌いの多い子どもには、料理をさせるといいというのも、同じです。

授業の準備から子供たちにどんどん参加させるととても楽しい展開です。

子供たちはとても真剣に準備を始めます。

お膳立てをすべて教師がやってしまうのとは全く違う世界です。

 

20年程前の卒業生と話をしました。

当時は、まだ『学び合い』と出会う前です。

私は、意識的に様々な場面で子供たちの力を活用していました。

その分、私の負担は軽くなり、自分の子育てに十分な時間を確保することができました。

卒業生たちにこの話をしました。

「君たちにいろいろなことをやってもらって、私の仕事を減らしていたんだよ」

と言うと、卒業生たちはすごく驚いていました。

「俺たちが、なにかやったっけ?」

「逆に、楽しかったことしか覚えていないんだけど」

とも言っていました。

自分たちでいろいろなことができるのですから、楽しいに決まっています。

私は、子供たちに任せていたのでその進行だけを見ていたわけです。

『学び合い』と出会う前から、そんなことをやっていたのです。

『学び合い』に出会ってから、子供たちにやらせてみるという授業を強く意識しました。一斉授業に慣れた子供たちからは、

「先生はなぜもっとちゃんとやってくれないのだ」

と思われていたようです。

それも、4年生が相手だと、全く違います。

自分たちでできることが楽しくて仕方がない。

4年生がやっていることを見て、私は『学び合い』の確かさを自分で確かめたような気がしていました。

受け身で、すべてを準備してもらう授業は忘れられていきます。

自分で考えて、自分でやってみたことは覚えています。

だから、卒業生たちは、「楽しかった」と言うのでしょう。

 

もっといろいろな考え方に出会って欲しいと思っています。

「状況に埋め込まれた学習」

は若い先生方に是非とも読んで頂きたい一冊です。

なかなかに骨の折れる読書です。