共通理解はマニュアルである

学校内で、何かと

「共通理解」

という言葉を聞くようになりました。

私ははっきり言って、この言葉が大嫌いです。

解釈をそろえる手間暇を考えると、その場で臨機応変に対応した方がずっと楽だと思っています。

だいたい子供は、予想外の事をします。

そのたびに「共通理解」が増えます。

馬鹿らしいほどの時間をかけて、「共通理解」します。

そして、また予想外の事がおこり、まだ会議です。

馬鹿らしい。

 

そんなことを思っていたら、

「なんだ、共通理解って、用は、マニュアルなんだ」

と気がつきました。

こういうときには、このように対応するというマニュアルの発想と同じなんだとやっと気がつきました。

だから、不測の事態には対応できない。

予想外の事が起こると、またマニュアルを増やしていく。

いずれ、マニュアルの読み方というマニュアルが出来るかもしれません。

教育の場にふさわしい物なのか私にはわかりません。

ただ、私には合わない。

 

「教育技術の法則化運動」が大変に盛り上がった時代があります。

私は、この運動を肯定的に考えています。

多くの教師が救われた面もありますし、子供たちも同じように救われた面もあります。

そもそも、「法則化」が始まったときには

「法則化出来るのは、全体の7%程度」

と言われていたのに、いつしか

「法則化できる」

とされる範囲がどんどん広がっていきました。

「法則化」は、指導論、教材論の見方ですので、『学び合い』の学習論とは違います。

この「法則化」こそ、マニュアルの考え方を推し進めた運動です。

マニュアルですから、限界もある。

限界を知った上で、自由に使えばいいのです。

 

 

共通理解を言い立てる教師の限界を見たような気がしています。

共通理解は、マニュアルであると気づかせてもらいました。

マニュアルであるとすれば、誰のためのマニュアルなのか、答えは明白です。

子供たちが、マニュアル通りに動くはずはありません。

私は、特別支援学級の担任として、子供たちの幸せな毎日を考えています。

 

先日、子供の一人が

「もう金曜日か、一週間が早いなあ」

と独り言を言いながら、帰りの用意をしていました。

これほど嬉しい言葉を久しぶりに聞きました。

私も

「もう金曜日か」

と思いながら、過ごしています。