新年会2

週末、2晩続けて、Zoomを使って新年会。

無料を使っているので、40分間限定です。

楽しかった。

もっと早くにやれば良かったと多少後悔しています。

顔を合わせて話をすれば楽しいメンバーなら、ウェブでも楽しい。

逆はないだろうと思います。

40分間があっという間に通り過ぎていきました。

みんな元気でよかった。

早くコロナが収束しないかなあと強く祈っています。

 

 

11月頃から、なぜかスイッチが入り、読書をしています。

スイッチは切れることなく、今も続いています。

今月は、本をたくさん買ってしまいました。

机の上は、本がいっぱいです。

世の中には、まだまだ知らない世界がたくさんあると感じます。

汲んでも汲んでも汲みきれない楽しい世界です。

新しい世界に出会うと、またまたもっと知りたいという欲求が進みます。

 

大学院に入った前期、図書館に入っていって、おそらく誰も読んでいないだろうと思う本を読みまくりました。まだ、自分の研究の方向が明確に定まっていないことをいいことにして、読書をしていました。

購入するとなると高価だし、借りようと思ってもそもそも図書館などにはない本が大学の図書館にはあふれています。

「これはどういう人が購入したのだろう?」

と思う本があふれていました。

特に、芸術の分野の本は楽しかった。音楽関係の本をたくさん読みました。

「こんなことを研究している人がいる」

という驚きと発見とわくわく感がありました。

大学院も1年の後期になると、そんなことは言っていられずに、楽しい読書は少なくなりました。

その時期に、自分の研究の必要もあって、大西忠治全集を読みまくったのは楽しかった。宇佐美寛先生からの「出口論争」と大西忠治先生からの「出口論争」はそれぞれの立場で語っているところが面白かったことを覚えています。そもそもの斉藤喜博先生の語りはあまりにも期待外れでがっかりしました。

もう「出口論争」なんて知っている人も少なくなっただろうなあと思います。

この出口論争こそ、向山洋一氏が世に出るきっかけになったなんて、すごい展開だと思います。

 

 

新年会

Zoomを使って、新年会をしました。

忘年会に続いて、楽しい時間を過ごしました。

無料なので、時間制限があり、それをどうするのか、また楽しい時間です。

「一次会はここまで、では、二次会で」

という感じです。

飲み会なら、そこから帰る時間もありますが、Zoomならそのまま寝ることもできます。

2回目の新年会を楽しみにしています。

 

 

 

それにしても、この場で書くことは自重すべきかもしれませんが、政府のコロナ対策はどうなのでしょうか。

私は、自分の身は自分で守る決意をしました。

もし、自分に感染の疑いがあったら、すぐに医療の世話になります。

自分の年齢もあり、重症化したくないし、ここで死ぬわけにはいきません。

まだ、やりたいことが30年分くらい残っています。

あの程度のことをしゃべるのに、メモを見なければならないなんて、どうなのだろうと思ってしまいます。

私は、ある公的な場所でのプレゼンを原稿なしでやったら、司会者から

「原稿なしなんて、すごいですね。」

と褒められました。

聞いている方々を見ないでしゃべっていたら、誰も聞きませんよ。

授業をしていれば、教師の視線の大切さは身をもって分かるはずです。

大人も同じです。

自分に向かってしゃべっていると分かるから、聞いているのです。

 

 

忘年会

Zoomを使って、忘年会をしました。

今回のテーマは、

「今年の本、マンガ、映画」

でした。

これが意外に面白かった。

みんなで顔を合わせれば、何時間でも馬鹿話が出来るメンバーですので、楽しいのは当たり前ですが、かなり楽しみました。

無料のZoomだから、時間制限があり、途中で乗り換えて継続するのも面白い。

出かける必要もないし、感染のリスクもない。

飲酒運転の心配もありません。

適当に飲んでしゃべって、笑って、いい時間を過ごしました。

次は、新年会。

「今年の抱負」

がテーマです。

また、馬鹿話で盛り上がるのでしょう。

楽しみです。

 

安定した学級

子供たちが安定して落ち着いた学級は、一般的にいい学級だと言われます。

子供たちが、ざわざわと落ち着かない様子の学級よりもよく見えます。

1年に一度やってくる指導主事は、そういう学級を見て

「落ち着いたいい学級ですね」

と言います。

多くの先生が、そういう学級を目指します。

私もそういう学級を目指してきました。

 

 

でも、その落ち着いた学級も、見方を変えるとまた違う面があるように思えます。

落ち着いた学級というのは、子供一人一人が自分の「位置」「居場所」を確保していて、そこにいるという状態かもしれません。

それは、悪いことではありません。

その「位置」「居場所」が、「序列」になっているのかもしれません。

走ることには、あいつにはかなわない。

字を書けば、あいつが一番だ。

絵を描けば、あいつが一番だ。

という状態です。

お互いの良さを認め合うのですから、別に悪いことではありません。

だから、走ることでは競うことはしない。

字を書くことでは、自分の位置でいいやと思う。

そうやって、安定していくと、結局、みんなが自分の「位置」にいて、動こうとしない活力のない学級になっていきます。

それが悪いという訳ではありません。

学級編成があり、中学校に進学すれば、もっと大きい集団に所属します。

また、次の「位置」を確保することになります。

 

学級の見方も、いろいろあります。

子供たちがごちゃごちゃといろいろな問題を起こすというのは、自分の「位置」を変えようとしている子供がいるという証拠なのかもしれません。

私は、どちらかというと、このごちゃごちゃした感じが好きです。

 

 

 

共通理解はマニュアルである

学校内で、何かと

「共通理解」

という言葉を聞くようになりました。

私ははっきり言って、この言葉が大嫌いです。

解釈をそろえる手間暇を考えると、その場で臨機応変に対応した方がずっと楽だと思っています。

だいたい子供は、予想外の事をします。

そのたびに「共通理解」が増えます。

馬鹿らしいほどの時間をかけて、「共通理解」します。

そして、また予想外の事がおこり、まだ会議です。

馬鹿らしい。

 

そんなことを思っていたら、

「なんだ、共通理解って、用は、マニュアルなんだ」

と気がつきました。

こういうときには、このように対応するというマニュアルの発想と同じなんだとやっと気がつきました。

だから、不測の事態には対応できない。

予想外の事が起こると、またマニュアルを増やしていく。

いずれ、マニュアルの読み方というマニュアルが出来るかもしれません。

教育の場にふさわしい物なのか私にはわかりません。

ただ、私には合わない。

 

「教育技術の法則化運動」が大変に盛り上がった時代があります。

私は、この運動を肯定的に考えています。

多くの教師が救われた面もありますし、子供たちも同じように救われた面もあります。

そもそも、「法則化」が始まったときには

「法則化出来るのは、全体の7%程度」

と言われていたのに、いつしか

「法則化できる」

とされる範囲がどんどん広がっていきました。

「法則化」は、指導論、教材論の見方ですので、『学び合い』の学習論とは違います。

この「法則化」こそ、マニュアルの考え方を推し進めた運動です。

マニュアルですから、限界もある。

限界を知った上で、自由に使えばいいのです。

 

 

共通理解を言い立てる教師の限界を見たような気がしています。

共通理解は、マニュアルであると気づかせてもらいました。

マニュアルであるとすれば、誰のためのマニュアルなのか、答えは明白です。

子供たちが、マニュアル通りに動くはずはありません。

私は、特別支援学級の担任として、子供たちの幸せな毎日を考えています。

 

先日、子供の一人が

「もう金曜日か、一週間が早いなあ」

と独り言を言いながら、帰りの用意をしていました。

これほど嬉しい言葉を久しぶりに聞きました。

私も

「もう金曜日か」

と思いながら、過ごしています。

 

傲慢な自分

最近の私はかなり傲慢です。

昔からそうだったのかしれません。

自覚ができたということでしょうか。

 

 

指導案の通りに進む授業なんて、全く面白くありません。

最近、学び合いが注目されるにつれて、特に思うことがあります。

「授業はコミュニケーションの場である」

という当たり前のことです。

子供たち同士、教師と子供のコミュニケーションの場です。

指導案は、予定されているコミュニケーションが書かれています。

予定されているコミュニケーションが行われたとして、何が面白いのでしょうか。

教師の思い通りに子供たちが動く、なんて何も楽しくありません。

授業は、その場で子供たちとどのようなコミュニケーションを作っていくのかと考えていると、全く違う姿になっていきます。

 

先日の研究授業でも、最後に予想できない発言が出ていました。

教師はそれを取り上げることが出来ませんでした。

残念です。

その場で、教師がどのように瞬発力を発揮するのか、それが面白いと思っています。

 

違和感

先の質問に「学び共同体」の指導者からの回答がありました。

 

違う課題、異学年でも学び合いはできます。

高学年が低学年に教えることで、学び合いになります。

 

 

という趣旨の回答でした。

正確に、回答された原文をアップすべきですが、手元にありません。

こういう趣旨と解釈しています。

私はこの回答に違和感を持っています。

結局、子供たち同士が直接関わる姿を想像しています。

高学年が低学年に教えるということで、学び合いが成立する、というイメージです。

『学び合い』の私が想像する学び合いの姿とは全く違います。

異学年の『学び合い』では、ほとんど異学年の子供たちとは話をしません。

6年生は6年生で固まっています。

異学年の子供たちは、近くにいるだけです。

特に積極的な働きかけもありません。

それで『学び合い』です。

 

 

すでに同志が明らかにしているように、成績が良い子供が分からない子供に教えたり、上級生が下級生に教えたりして出来るようになるという発想が違うのです。

出来る子供ほど、誰からも学んでいるのです。

隣の席の友達のちょっとした勘違いや間違いを見て

「あ、そういうことか」

と気づける子供が出来る子なんです。

固定的に、出来る子供が出来ない子供に教えるということを想像している回答だったわけです。

私には、強烈に違和感があります。

あまりにも常識的な見解です。

そういう場面に出くわすことはあるでしょうが、それは本質ではありません。

私の解釈は違います。

どういう課題を設定しても、課題に対してどういう態度をとっているのか、が問われるのです。

みんなが課題に向かっていないなら、「向かわなくていいんだ」という合意ができあがります。

一人一人が自分の課題に向かっているのなら、「みんな自分の課題に向かっている」という合意ができあがります。

この合意ほど、強いものはありませんし、この合意ほど恐ろしいものもありません。

できるということが、高い方から低い方へ流れることを想定した回答に私は違和感を覚えるのです。

今、ここまで書いてきて、これは違和感というより、異議申し立ての方がすっきりするような気がしてきました。

一人一人が違う課題を設定する特別支援学級の子供たちの『学び合い』に私は毎日出会っています。

子供たちが話し合っているから学び合いなのではありません。

 

今日はそんなことを考えています。